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にらめっこってなんなの?→戦に勝つための訓練。元は目競、先に逸らすと負けという根競べ。「にらみっこ→にらめっこ」と変化。

今回は、2020年9月4日金 チコちゃんに叱られる!「▽クイズ王と対決!▽100万ドルの夜景▽にらめっこ」の番組内容を紹介。


にらめっこってなんなの?




こどものころ、よくやりましたにらめっこ。


これって、なんなんでしょうね。





にらめっこってなんなの?


本日の4つめ目の話題。


最後は、笑いながらはじまります。


チコちゃん「頑張れ。クイズ王。」


ちこちゃん「ねぇねぇ岡村、この中で一番、表情豊かなステキな大人ってだーれ?」


岡村さんのご指名で、伊沢さんが回答者に。


チコちゃんとにらめっこします。


チコちゃん「じゃあ、にらめっこってなんなの?」


伊沢さん「にらむだから、神様が悪霊を退散させる儀式として怖い顔をしたのがにらめっこの始まり。」


チコちゃん「ボーっと生きてんじゃねーよ!」


岡村さん「当たってるかのようで全然当たってない。」


急に岡村さんが発言。


岡村さん「戦!」


チコちゃん「戦が?」


最終的には、


岡村さん「戦を収める為に行った暇つぶし。」


正解に至らず残念。



チコちゃんの答えは、「戦に勝つための訓練」


チコちゃんも変顔できます。





戦に勝つための訓練


にらめっこが生まれたのは平安時代の終わり頃。


当時はにらめっこではなく、目競(めくらべ)と呼ばれていました。


日本初のにらめっこといわれているのが、平清盛。




平家物語を絵にした書物には「目競」というタイトル。





平清盛が骸骨を、にらみつけて目力で退治したというお話が残っています。





なぜ武士は目競をした?


そもそもこの「目競」は武士同士の真剣勝負。


目を先に逸らすと負けという根競べ。


相手を睨みつけるというものだったので、そこから転じて「にらみっこ→にらめっこ」と変化。


日本人というのは古来からシャイな性格。


人と人が正面に向かい合って対面するのは苦手な民族。


戦になると目を逸らしていたりしたら死に直結。


この苦手な敵を真正面に見据えるという事を訓練で克服しようとしたのが目競の始まり。




これが時代が移って、平和な鎌倉時代。


にらみ合うという要素を残しつつ、相手を笑わせるという遊びが入ってきたとのこと。


国宝「鳥獣人物戯画」にも、目競をしているシーンが。




向き合う2人が、とぼけた顔。




そして、周りは大爆笑。





鎌倉時代になるとそれまでの源平の合戦の時代から平和な時代に。


争う気持ちが薄らいで、遊びというゆとりが生まれたのではないかとのこと。



なぜ目競が遊びになった?


江戸時代になるとにらめっこの歌の元となったわらべ歌が誕生。


だるまさん、だるまさん、にらめっこしましょ!

笑うと負けよ! あっぷっぷ!





このわらべうたの影響でっこは子どもの遊びとして定着。





だるまさんってだれ?


このだるまさんは、達磨大師という偉いお坊さん。





9年間も一言も喋らず座源を組み続けたという禅宗の祖。


この達磨大師を何とかして笑わせてやろうという遊び心から歌われるようになりました。


このにらめっこという遊びはブラジルで、も日本と同じ様なルールで遊ばれているとのこと。



世界にらめっこアワー


最後に、突然、世界からの変顔アワー


オーストラリア代表







アメリカ代表





イギリス代表







結論


というわけで、


「にらめっこってなんなの?」は、


「戦に勝つための訓練」


でした。



解説してくれたのは


関西大学の藤田真一名誉教授


藤田真一(ふじたしんいち、1949年 – )は、国文学者、関西大学教授。

京都市生まれ。1973年大阪外国語大学ドイツ語科卒、1980年大阪大学大学院博士後期課程国文学専攻満期退学[1]。2000年「蕪村俳諧遊心」で阪大文学博士。1980年京都府立大学講師、86年助教授、教授、2001年関西大学文学部教授。専攻は俳諧、美術。特に与謝蕪村。2000年『蕪村 俳諧遊心』で文部大臣奨励賞、2012年『蕪村余響』でやまなし文学賞受賞。

著書
『風呂で読む蕪村』世界思想社 1997
『蕪村 俳諧遊心』若草書房 近世文学研究叢書 1999
『蕪村』岩波新書 2000
『蕪村余響』紫薇の会 2002
『蕪村余響 そののちいまだ年くれず』岩波書店 2011
『日本人のこころの言葉 蕪村』創元社 2014
『蕪村の名句を読む』河出文庫 2016
(Wikipediaより)



関西大学


関西大学(かんさいだいがく、英語: Kansai University)は、大阪府吹田市山手町三丁目3番35号に本部を置く日本の私立大学である。1922年に設置された。大学の略称は関大(かんだい)。

大学全体

児島惟謙
関西大学は、江戸時代後期の1825年(文政8年)、四国高松出身の儒学者、藤沢東畡(1794-1864)によって大坂市中に開かれた漢学塾「泊園書院」を源流とし、1886年に関西初の法律学校として大阪府大阪市西区京町堀の願宗寺に開かれた関西法律学校を起源に持つ大学である[1]。

関西法律学校は、当時、司法省の顧問を務めていたギュスターヴ・エミール・ボアソナードに学んだ井上操、小倉久、鶴見守義、野村鉁吉、手塚太郎(漫画家手塚治虫の祖父)ら大阪在勤の裁判官や検事、また彼らの上司である児島惟謙、旧判事で、実業家となり後に大阪商工会議所の第7代会頭を務める土居通夫、元官吏の有田徳一、自由民権運動家である吉田一士らにより設立された。

また、大正期に山岡順太郎をはじめとする関西経済界からの強力な支援を受けて学校組織の大幅な変更が行われ、1922年(大正11年)には日本の私立大学では立命館大学(「関関同立」の立)と共に古い段階の大学令に基づき、2学部(法・商)を擁する大学(旧制大学)の一つとして新発足し、大学予科を付設した。

2020年現在、13学部、大学院16研究科を設置している。近年、専門職大学院の充実を図っており、法科大学院・会計専門職大学院・臨床心理専門職大学院を設置している。

理念
関西大学の建学の精神は、第二次世界大戦直後に学長を務めた岩崎卯一(法学部教授)が、1947年(昭和22年)に提唱した、「正義の権力よりの守護」を基底とする「正義を権力より護れ」となっている[2]。これは、”関西法律学校の創立に重要な役割を果たした児島惟謙・大阪控訴院長が後に大審院の院長となり大津事件の裁判を担当した際に、時の内閣(第1次松方内閣)から被告人を極刑に処するよう強い圧力がかかったにもかかわらず、それに屈することなく司法権の独立を護ったことに由来してい”る[3]。また、大正期に、第11代学長山岡順太郎の掲げた、「学の実化(じつげ)」(学理と実際との調和、国際的精神の涵養、外国語学習の必要、体育の奨励)を学是として定めて[4]、教育研究活動を展開している。

今日の関西大学では、「学の実化」を、大学が研学の府として学問における真理追究だけに終わるのではなく、社会のあるべき姿を提案し、その必要とするものを提供することによって「学理と実際との調和」を求める考え方であると規定し、この「学の実化」を実現するために、不確実性の高まる社会の中で困難を克服し未来を切り拓こうとする強い意志と、多様性を尊重し新たな価値を創造することができる力とを有する人材を育成することを教育活動の目的としている[5]。
(Wikipediaより)




今回も最後まで読んでくれてありがとう。
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