今回は、2022年1月2日金 チコちゃんに叱られる!「新春拡大版スペシャル!鎌倉殿の13人が見たい!」の番組内容を紹介。
なんでコロコロよりゴロゴロの方が大きく感じるの?
なんでコロコロよりゴロゴロの方が大きく感じるの?
本日の5つめ目の話題。
チコちゃん「ねぇねぇ岡村、この中で一番、表現力豊かでステキな大人ってだーれ?」
この問題は、岡村さんが立候補して自ら回答者に。
チコちゃん「なんでコロコロよりゴロゴロの方が大きく感じるの?」
岡村さん「濁点がつくと音の幅が広がるから。」といった趣旨の回答。
正解に至らず叱られちゃいました。
チコちゃんの答えは、「コと言う時よりもゴと言う時の方が実際に口の中の空間が大きくなっているから。」
コと言う時よりもゴと言う時の方が実際に口の中の空間が大きくなっているから
解説してくれたのは、慶應義塾大学の川原繁人准教授。
コロコロとゴロゴロについてそれぞれ広辞苑で意味を調べてみると、
コロコロ → 丸みを帯びたものが転がっていくさま
ゴロゴロ → 重いものが転がったり移動したりする音。そのさま。
という意味の違いで、「大きさ」についての記述はありません。
その一方で、ゴロゴロが大きくて、コロコロの方が小さいというのはほとんどの人が共通で感じる違い。
この違いは濁点の存在がポイント。
先生によると
濁点=大きさ、重さ、強さに結びついているとの事。
他にも、
キラキラ vs ギラギラ
カリカリ vs ガリガリ
トントン vs ドンドンなど。
全てに共通して濁点が付くと強さ、重さ、重さなどが増しているように感じます。
これは動物の名前、単語においても同様。
ゴリラ → コリラ、
ドラゴン → トラコン
コアラ → ゴアラといった具合。
濁点を失うと急に弱体化したように感じます。
反対に濁点を付けると大型化したような感覚にも。
こういった現象は濁点をつけて発音する時の方が口の中が大きく膨らむから。
「シ(濁点なし)」「ジ(濁点あり)」の2音を発音した際の口の中の大きさを比較した画像。
濁点ありの方が口を大きく広げて発音しているのが分かります。
また、口の中が大きく広がる事でより低い音の成分が含まれた音がでて、濁点ありの方が低い音になるという違いも。
「コ(濁点なし)」「ゴ(濁点あり)」の2音を発音した際の周波数の違いを比較。
濁点ありの方が低い音の成分を含んでいます。
そしてこの低い音は大きなものから発せられる事が多く、楽器でもサイズが大きくなると低い音が出るようになります。
それらから、「低い音を聴くとそれが大きい物である」と連想してしまうことに。
これがゴロゴロの方が大きく感じる原因。
濁点に限らず音には様々なイメージ
図形2パターンに「タケテ」「モルナ」という2つの名前を当てはめるとしたらあなたはどちらの名前を選びますか?
ほとんどの人が左の図形に「タケテ」、左の丸みのある図形に「モルナ」と名付けます。
濁点が付けられる音の「カ行、サ行、タ行、ハ行」には角ばったり、近寄りがたいイメージを抱くもの。
反対に濁点が付けられない音の「ナ行、マ行、ヤ行、ラ行、ワ行」には丸っこい、親しみやすさを感じます。
他にもサ行は「サッと風が吹く」「スーッとする」といったように速さや爽快感。
マ行は「モフモフ」「ムチムチ:のように柔らかさや弾力性を、
ナ行は「ネバネバ」「ヌルヌル」のように粘着性を想像させるとのこと。
いうわけで番組では日本全国の名字を調査。
川原先生監修で最も強そうな名前を調べてみる事に。
結果は、
第3位 五賀・伍賀(ごが)【ごが】
濁点の中ではガ行が特に強そうなイメージを抱くそうなのでガ行が並ぶ苗字として選ばれました。
あ・お>え>う>いという順に「母音によって大きさを感じる」という事も研究で分かっているとのこと。
第2位 大悟法(だいごぼう)【だいごぼう】
濁点が3つ入っているので非常に強そうとのこと。
第1位 五龍神田・五竜神田(ごりゅうかんだ)
人間は単語を聞く際には最初と最後をよく聞くという特徴があるそう。
ゴとダが始めと最後に来るのがポイント。
さらに単語が長くなるほど強そうに感じるという事も研究で分かっているとのこと。
結論
というわけで、
「なんでコロコロよりゴロゴロの方が大きく感じるの?」は、
「コと言う時よりもゴと言う時の方が実際に口の中の空間が大きくなっているから」
でした。
解説してくれたのは
慶應義塾大学の川原繁人准教授。
川原 繁人 (カワハラ シゲト)
Kawahara, Shigeto
所属(所属キャンパス)
研究所・センター等 言語文化研究所 (三田)
職名
准教授
HP
http://user.keio.ac.jp/~kawahara/index_j.html
外部リンク
プロフィール
2002年に国際基督教大学教養学士、2007年にマサチューセッツ大学言語学博士取得。ジョージア大学Assistant professorで1年、Rutgers, the State University of Jerseyで5年間教鞭をとった後に、慶應義塾大学言語文化研究所に移籍。 日本学術会議若手音声研究者ネットワーク代表者 Associate editor: Phonology, Language and Linguistic Compass. Editorial board: Phonetica; Natural Language and Linguistic Theory (NLLT); Phonological Data and Analysis; Languages
経歴
2008年 – 2013年 Rutgers, the State University of New Jersey, the linguistics department, Assistant Professor
2009年 – 2013年 Rutgers, the State University of New Jersey, Graduate faculty in the psychology department
2011年 – 2013年 Rutgers, the State University of New Jersey, Rutgers University Center for Cognitive Science (RuCCs)
2012年01月 – 2012年02月 国際基督教大学, 客員研究員
2007年 – 2008年 University of Georgia, Assistant Professor
学歴
2002年 – 2007年09月 マサチューセッツ大学アマースト校
アメリカ合衆国, 大学院, 修了, 博士
2006年 トロムソ大学 (客員大学院生)
ノルウェー, 大学院
1998年04月 – 2002年03月 国際基督教大学
日本, 大学, 卒業
2000年 – 2001年 カリフォルニア大学サンタクルーズ校(交換留学生)
アメリカ合衆国, 大学
Ph.D. (Linguistics), University of Massachusetts, Amherst, 課程,
2007年09月
The Emergence of Phonetic Naturalness
教養学士, 国際基督教大学, 2002年03月
Similarity among Variants: Output-Variant Correspondence
(大学HPより)
慶應義塾大学(けいおうぎじゅくだいがく、英語: Keio University)は、東京都港区三田二丁目15番45号に本部を置く日本の私立大学である。1920年に設置された。大学の略称は慶應(けいおう)、慶大(けいだい)。「應」が旧字体のため、報道などでは「慶応」と表記されることもある。
慶應義塾大学は、中津藩士の福澤諭吉が藩命により江戸築地鉄砲洲(現在の東京都中央区明石町)の中津藩中屋敷内に、1858年(安政5年)に開校した「蘭学塾」を起源に持つ大学である[1][2][注釈 1][注釈 2]。淵源は、1796年(寛政8年)設置の国学藩校「進脩館」まで遡り[3]、1839年(天保10年)に開塾した「象山書院」及び江川英龍の「韮山塾[4]」等旧私塾の流れを汲む[注釈 3]。
1863年(文久3年)、蘭学塾から英学塾に変わると、旧幕臣・吉田賢輔等を教授に迎え、1868年(慶應4年/明治元年)前年に木村摂津守の世話により、芝新銭座(現在の港区浜松町)の有馬家控屋敷跡に移転し、年号をとって「慶應義塾」と塾名を定めた[5][注釈 4]。なお、「義塾」とは英語の「パブリックスクール(public school、共立学校)の訳語とされ[5]、このとき、中津藩江戸藩邸の蘭学塾から近代私学としての一歩を踏み出した。まもなく、1866年(慶応2年)に親藩・紀州徳川家の藩命を受けて紀州藩士を迎えて塾舎内に「紀州塾」を開設[7][8][注釈 5]。この他、幕末にかけては「志摩三商会」に脈絡のある三田藩の藩政改革に携わる。
1871年(明治4年)に、三田(港区三田)の島原藩中屋敷跡地を貸し下げられ(翌年払い下げを受ける)、現本部所在地に移った。明治以後、官公私立問わず、近代日本の教育制度、大学制度の立ち上げモデルになり、また後に私立大学となる学校の中で最初に授業料を徴収した[9][10]。廃藩後の1880年(明治13年)までの生徒の割合は越後長岡藩・紀州藩・中津藩(慶應義塾の三藩)を中心とした士族が十中八九であった[11]。
1873年(明治6年)に「慶應義塾医学所」を開設[12]。同年10月には分校「大阪慶應義塾」[13]・「京都慶應義塾」(京都集書院)[14] を設立。また福澤諭吉や松下元芳が塾頭を務め、塾生が一部移籍してきた「適塾」(大阪帝国大学医学部)から受けた影響は特に大きく、大坂とのゆかりが深い。
1873年(明治6年)に修業年限を定めて正則・変則両科を新設、1875年(明治8年)に本科・予備科となる。1876年(明治9年)に土佐立志学舎の運営に参画。1877年(明治10年)に神戸商業講習所を開校・運営、同年に本科第三等以上修了者に徴兵免役の指令が出され、1896年(明治29年)に改正微兵特典適用、1899年(明治32年)に海軍少主計候補生(主計少尉候補生)の受験資格を得た。
1878年(明治11年)には分校「三菱商業学校(明治義塾)」設置に参画。1879年(明治12年)に専門教育課程として夜間法律科(専修学校 (旧制)へ改組:後の専修大学)、理学科、支那語科、簿記講習所を設置。1880年(明治13年)には興亜会へ参画。その他、主な関連校に「藍謝堂」(高島学校)、「高山歯科医学院」、「耕余義塾」、「亮天社」、「三田英学校」等がある。
1890年(明治23年)に大学部(文学・理財・法律の三科)を開設[注釈 6]。明治31年に政治科を開設。1917年(大正6年)大学部に医学科を開設し、北里柴三郎が医学科学長として尽力[15]。1920年(大正9年)には大学令による日本最初の私立大学(旧制大学)として新発足し[注釈 7]、文学・経済学・法学・医学の4学部から成る総合大学となり、予科・大学院を付設した。このとき、学事に関する最高意思決定機関として大学評議会が設けられ[16]、11月には大学病院も開院した。1942年(昭和17年)に中国大陸および南方の農業開発を目指して農学部を増設しようとしたことがあり(獣医畜産専門学校)、1947年(昭和22年)には獣医師の免許を得ていた。
1944年(昭和19年)に「藤原工業大学」が慶応に寄附され工学部を開設。1957年(昭和32年)に商学部を開設。1990年(平成2年)、湘南藤沢キャンパスに総合政策学部・環境情報学部を開設。2008年(平成20年)4月に「共立薬科大学」が合併したことにより、新たに薬学部と薬学研究科を設置。
卒業生は明治初期、官吏、教育界が主流であったが、明治十四年の政変の後、漸次に経済人、実業家が勃興するようになる。また、1880年(明治13年)に日本最古の社交倶楽部「交詢社」を設立した[17]。現在の大学は10学部、大学院は14研究科となっている。
(Wikipediaより)
今回も最後まで読んでくれてありがとう。
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