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なんでカレンダーには大安とか仏滅って書いてあるの?→闇カレンダーが作られたから

今回は、2022年4月8日金 チコちゃんに叱られる!「▽カレーの謎▽テレビはなぜ映る▽カレンダーの秘密」の番組内容を紹介。


なんでカレンダーには大安とか仏滅って書いてあるの?




なんでカレンダーには大安とか仏滅って書いてあるの?


本日の最後の話題。


チコちゃん「ねぇねぇ岡村、この中で、カレンダーを毎日見るしっかり者の大人ってだーれ?」


本日は先発していない岡村さんが立候補して回答者に。


カレンダーに書いてある、大安とか仏滅とかを見てもらいます。





チコちゃん「なんでカレンダーには大安とか仏滅って書いてあるの?」


岡村さん「、、、、、、」何も答えられないで終了。


チコちゃんに叱られちゃいました。



チコちゃんの答えは、「闇カレンダーが作られたから。」



闇カレンダーが作られたから


解説してくれたのは、一橋大学の下村育世特任講師。


カレンダーに書かれている大安、仏滅といった記載は日の吉凶を占う六曜に由来しています。




六曜は、先勝(せんしょう)、友引(ともびき)、先負(せんぷ)、仏滅、大安、赤口(しゃっこう)の6種類。




六曜は14世紀頃に中国から伝来したもの。


日本で独自解釈が加わった「1日のうちどの時間帯が吉で、どの時間帯が凶かを教えてくる占い」の事。





【先勝】午前が吉で午後は凶。

【友引】11時から13時のお昼の時間帯だけ凶。

【先負】午前中が悪くて午後は吉。

【仏滅】1日中凶なので何事も控えるべき日。

【大安】オールOKの日。

【赤口】11時から13時のお昼の時間帯だけ吉。


実はこの六曜は江戸時代には既にマイナーになっていた占い。


1864年の江戸時代に作られたカレンダーを見てみると、





「十二直」「二十八宿」「六十干支」の3種類を含めて全5種類の占いのようなものが記載。


六曜の文字はどこにもありません。


その理由は、漠然としているから。


この時代の人々はかなり占いを頼りに生活していました。


体の具合が悪かったとしてもその日の占いで凶が出ていれば医者への受診日をずらしたり。


カレンダーに従って占いでやるべき・避けるべきことを決めていました。




時間帯だけで占う六曜は、説得力に欠けており、あまり流行らなくなっていたよう。


ところがそんな陰の存在だった六曜は明治時代に入って文明開化が訪れると脚光を浴びる事に。


この時代に行われた暦の改定により、それまで使っていた旧暦、太陰暦から西洋にならった太陽暦に変更。


この時、明治政府は「カレンダーにある吉凶占いは科学的根拠がない」という理由でことごとく禁止。




ところが、カレンダーに占いが載っているのが当たり前として生活していた人々はこれに不満。


その結果生まれたのが、占い付きの闇カレンダー。


闇カレンダーは業者が政府の許可を得ないまま違法に発行されたカレンダーの事。


占いがあった方が売れ行きが良かった事もあって、政府の取り締まりの目を盗んで色んな占いをどんどん追加。


その流れに乗ってそれまでマイナーだった六曜も記載されるように。


この政府によるカレンダー規制は明治6年から終戦まで続いました。


戦後になってようやくカレンダーの発行が自由化。


こうして第二次大戦後には自由に作られるようになったカレンダー。


生活の近代化に伴って人々が占い頼りを辞めたことで、逆にそれまでの複雑な占いが省略。


そこで生き残ったのがシンプルだった六曜。





専門的な知識必要なし、種類は6つだけ、字だけで意味が分かるとシンプルだっだのでマイナーだった六曜が残る結果に。


さらに結婚式は大安に、葬式は友引を避けるといったように冠婚葬祭業と六曜が強く結びついた事で、人生の大きなイベントの度に六曜が持ちだされて人々に定着。





最後に「字だけで意味が分かる」はずの六曜にあって赤口だけが異質ということで解説。




赤口(しゃこう)ということで、社交ダンスに乗せてい紹介。




ダンスは、河岡宏美さんとKevinさん


赤口の世界1






赤口は、赤舌神(しゃくぜつじん)に6日に1度、鬼が門番としてつく日。



赤口の世界2




普段は暴れまわっている鬼がおとなしいのがお昼なのでその時間帯が吉。



赤口の世界3




実は仏滅よりも凶ととられる事も。


赤口の世界4





赤口の赤から連想されるので「火の元、刃物(料理・散髪)」は避けるべき。


総じて赤口は「赤い色の服は避けて、手づかみで火を使わない生ものを食べるべき日」という事で結論。


(注釈:六曜の発祥や意味については諸説あります。)



結論


というわけで、


「なんでカレンダーには大安とか仏滅って書いてあるの?」は、


「闇カレンダーが作られたから」


でした。



解説してくれたのは


一橋大学の下村育世特任講師


所属
一橋大学大学院 社会学研究科 特任講師(ジュニアフェロー)

学位
博士(社会学)(2021年1月 一橋大学)

2021年4月 – 現在一橋大学大学院 社会学研究科 特任講師(ジュニアフェロー)
2016年4月 – 現在高崎経済大学 経済学部 非常勤講師
2013年4月 – 現在東洋大学 人間科学総合研究所 客員研究員
2012年4月 – 現在武蔵野大学 教養教育リサーチセンター 客員研究員
2018年6月 – 2021年3月国立歴史民俗博物館 共同研究員
2012年11月 – 2017年3月国立公文書館 統括公文書専門官室 調査員
(HPより)



一橋大学


一橋大学(ひとつばしだいがく、英語: Hitotsubashi University)は、東京都国立市中2丁目1番地に本部を置く日本の国立大学である。1920年に設置された。指定国立大学法人に指定されている。

大学全体

国立キャンパス本館
一橋大学は森有礼が福澤諭吉と[1]渋沢栄一の援助を得て[2]、1875年(明治8年)に開いた商法講習所を源流とする日本で最も古い社会科学系の大学である。第二次世界大戦前には商学専門の官立大学(旧制東京商科大学)として開設されていた。森有礼は、幕末期にロンドン大学に学び、のち初代米国代理公使としてワシントンに滞在した。英米両国では実業家が官僚や政治家に劣らず活動していること、国家独立の基礎は経済の富強にあって、そのためには経済人の育成が急務だと痛感したこと、それらが一橋大学の学校設立の端緒となっている。

建学の精神(校訓、理念、学是)
沿革から、産業界の指導者を育成するという建学理念を持つ。19世紀イギリスの論客トーマス・カーライルの著作『過去と現在』(“Past and present”) から採られた言葉「キャプテンズ・オブ・インダストリー (Captains of Industry)」[3] という言葉は一橋大学における事実上の校是となっている。

教育および研究
少人数教育
一橋大学では少人数教育を重視している[4]。
全学部の入学定員の合計は1学年950人強[5]。1875年開設以来の卒業生の数は7万人程度と比較的少ない[6]。
現在でも、あまり規模が大きくない大学であるが、1980年以前頃までは、さらに少ない学生数であった。戦前の学生数は大学本科1学年280名前後、大学予科1学年200名前後、付属専門部1学年200名前後、商業教員養成所1学年35名前後であり、大学本科全体で合わせて700人から1,000人程度、学園全体で2,400人程度であった[7][8]。
戦後は付属大学予科や付属専門部を吸収して拡張し、1学年440名(1959年)から490名(1963年)程度に増加した[9][10]。他の国立大学文系学部と同様に団塊世代が大学に進学する1965年以降大幅に定員が増え、現在では学部生1学年約950人程度となっている[11]。
ゼミナール
少人数教育における特色としては、特に必修のゼミナール制度が挙げられる。このゼミナール制度はベビーブームの時代にも教員一人に対して10人前後の学生という形態を変更しなかった。現在も10人前後でのゼミが行われている。
またこのゼミナールでは、学問だけでなく全人格的指導を行っているのも特徴であるとされる[12]。学生は3, 4学年の2年間を通じて、同じゼミに所属することとなる。課外でのレクリエーション、ゼミ合宿、卒業後の定期的な会合などが行われるゼミも多い。
学部間の壁が薄い
戦前は東京商科大学という単科大学であったこともあって、学部間の壁があまりない。そのため一般の授業については、他学部の科目を原則自由に履修することができる。さらに他学部の専攻を副専攻とすることができる副専攻プログラムや、他学部への転学部制度もある[13]。
ゼミナールについても、副ゼミナール制度などを利用することにより、他学部のゼミを履修することができる。
また学部によって、使用される建物が違うということもなく、使用されるシラバス・時間割も全学部共通のものである。1年次の語学のクラスも全学部の学生により構成され、他学部の学生と交流する機会も多い。
国際色ある教育
戦前から外国人教師を任用するなど国際色ある教育が伝統[14] で、現在500名を超える留学生が在籍しており、文部科学省の大学国際戦略本部強化事業にも採択されている。
大学に在学しながら、海外の大学に留学し、その際授業料・旅費・生活費が全額給付されるという一橋大学海外留学奨学金制度もある。また授業の一環として夏休み等に海外の大学に語学留学する講義も開講されている。
学風および特色
官学化に反する学風
産業界の指導者を育成するという建学理念があり、そして実際にも卒業生の多くが産業界で活躍し、従来官界、法曹界に進むものは多くはなかった。また1909年には東京帝国大学に統合し、東京帝国大学法科大学商科とすると決定した文部省に対し、学生、教員、同窓会が抗議、緒方竹虎、武井大助らがリーダーとなり学生が総退学決議をなし、これに折れた文部省が決定を撤回し、その結果、現在も一橋大学が存続しているという経緯がある。そこで、卒業生は「官僚等の養成を目的に設立された旧帝国大学とは違う」という考え方を持っている[15]。ただ、現在では法曹界や官界に進む卒業生も増えてきている[15]。特に法科大学院ができてからは大学の公式のプログラムにより法曹養成が行われており、公共政策大学院も設置されている。
学生の自由を重んじる
現在の大学の名称が学生の投票により決められ、また学長選において学生の投票を最後まで認めていた大学であるという事実等から関係者は「学生の自由を重んじる校風をもっている」と考えており[16]、現在でも学長選・副学長選では学生による参考投票が行われている[17]。
(Wikipediaより)




今回も最後まで読んでくれてありがとう。
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