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なんでふぐは下関名物なの? 伊藤博文に食べさせる魚がふぐしかなかったから

今回はチコちゃんに叱られる! ▽下関のふぐ▽車のウインカー▽おじさんのいびき 初回放送日NHK総合テレビジョン9月11日(土)を紹介。


なんでふぐは下関名物なの?




なんでふぐは下関名物なの?


チコちゃん「ねぇねぇ岡村、この中で一番、おいしいものが好きなステキな大人ってだーれ?」


チコちゃん「なんでふぐは下関名物なの?」


チコちゃんの答えは、「伊藤博文に食べさせる魚がふぐしかなかったから。」



伊藤博文に食べさせる魚がふぐしかなかったから


【歴史の裏話】ふぐが下関名物になった理由は「伊藤博文」と「海の大荒れ」!?天下人も禁じた猛毒魚が愛されるまで

冬の味覚の王様であり、高級食材の代名詞でもある「ふぐ(河豚)」。


「ふぐといえば山口県の下関!」というイメージが全国に定着していますが、なぜ下関がふぐの本場になったのか、その本当の理由をご存じでしょうか?


実際にふぐの漁獲高では、下関は5位





実はその裏には、初代総理大臣・伊藤博文が巻き込まれた「あるハプニング」と、旅館の女将による命がけの決断が隠されていたのです!


今回は番組で明かされた驚きの真相と、日本のふぐ食にまつわる面白い歴史をたっぷりお届けします。



チコちゃんの答え:伊藤博文に食べさせる魚がふぐしかなかったから!

番組で明かされた答えは、あまりにも劇的なハプニングによるものでした。


「下関がふぐ名物になったのは、伊藤博文に食べさせる魚がふぐしかなかったから!」


解説を担当された下関ふく連盟理事の畑栄次さんによると、事の発端は明治20年(1887年)の暮れ、山口県出身の伊藤博文が贔屓にしていた下関の老舗旅館「春帆楼(しゅんはんろう)」を訪れたときのことでした。


里帰り中だった伊藤博文は、宿で「何か美味しい魚が食べたい」とリクエストします。


しかし、運悪くその日は海が大荒れ!市場には他の魚が全く入荷しておらず、旅館には出せる魚が一切ないという大ピンチに陥ってしまったのです。


そこで女将の藤野みちさんは、選択肢がない中で唯一手元にあった「ふぐ」を出すという決死の行動に出ました。





これが、日本のふぐの歴史を180度変える奇跡の瞬間となったのです!



当時のふぐは法律で禁止!?秀吉も恐れた恐怖の猛毒

「魚がないならふぐを出せばいいじゃない」と思うかもしれませんが、当時のふぐは今のような高級食材ではなく、しかも法律で食べることを禁止されていた「禁断の魚」でした。


日本近海には約70種類のふぐが生息しており、とらふぐやまふぐなど美味な種類が多く存在します。




しかし、ご存じの通りふぐの体内には「テトロドトキシン」という恐ろしい猛毒が含まれています。


その毒性は青酸カリの約800倍、自然界最強クラスとも言われ、人間ならたった1mgで死に至るほどです。


歴史をさかのぼると、日本人は縄文時代(7500年以上前)からふぐを食べていた形跡があります。




本草和名にも記載があります。




しかし安土桃山時代の1592年、豊臣秀吉が朝鮮出兵のために兵を集めた際、集まった武士たちがふぐ毒で相次いで中毒死する事件が発生!




怒った秀吉はすぐさま「河豚食禁止令」を出し、江戸時代になっても武家では「当主がふぐ毒で死んだ場合は家禄(土地や米)没収」という超厳しいペナルティが課されるほど徹底されていました。


明治時代になってもその法律は生きており、一間違えば時の国家権力者(初代首相)に違法な毒魚を出してしまうという、女将にとってはまさに「命がけのギャンブル」だったのです。


しかしながら、こっそりとふくは人々に食べられていたようです。


1643年の料理物語にも、ふぐ料理の紹介があります。




小林一茶の俳句にも





五十三次の内、品川にも、ふぐは捨てるにはもったいないとかかれていたり。





「この魚はなんだ?」伊藤博文の粋な神対応と解禁への道

出されたふぐ料理を食べた伊藤博文は、「この魚はなんだ?」と尋ねたと伝えられています。


伊藤博文ほど人物であれば当然ふぐだと分かっていたはずですが、建前上「知らない魚」として味わい、そのあまりの美味しさに深く感動したと言われています。


その絶品ぶりに感銘を受けた伊藤博文は、翌明治21年(1888年)、当時の山口県令(現在の県知事)である原保太郎に働きかけ、全国に先駆けて山口県でのみ「ふぐ食」を正式解禁させました!





他県で解禁されたのは、兵庫県で30年後、大阪府で53年後。つまり、「堂々と美味しいふぐが食べられる場所=山口県(下関)」という時代が30年以上も続いたのです。





このアドバンテージによって、下関には全国から腕利きの料理人や毒を安全に取り除く加工技術、目利きの競り人が集結。全国からふぐが集まる「南風泊(はえどまり)市場」は取扱量日本一となり、名実ともに「ふぐの本場」としての地位を確立しました。



【歴史のロマン】日清戦争の「下関条約」もふぐの宿で調印!

ちなみに、伊藤博文はこの事件の後も春帆楼を深く愛し続けました。


歴史の教科書でおなじみの日清戦争後の講和会議(1895年)が行われ、「下関条約」が結ばれた舞台こそ、まさにこの春帆楼だったのです!





伊藤博文が中国(清)の全権大使・李鴻章(りこうしょう)を迎える場所として選んだ背景には、自慢のふぐでもてなしたいという思いや、深い縁があったのかもしれませんね。



まとめ:海の大荒れと女将の度胸に感謝して味わおう!

もし明治20年のあの日に海が荒れていなかったら……。


もし女将さんがふぐを出すのを躊躇していたら……。


今私たちが安全で美味しいふぐ料理を楽しめているのは、自然のいたずらと、職人・女将の覚悟、そして伊藤博文の食への愛のおかげと言えますね。


次に下関のふぐや、美味しいふぐ刺し・ふぐ鍋をいただくときは、ぜひこのドラマチックな歴史のストーリーを思い出して、一味違う深い味わいを噛みしめてみてください!



結論


というわけで、


「なんでふぐは下関名物なの?」は、


「伊藤博文に食べさせる魚がふぐしかなかったから」


でした。




解説してくれたのは


下関ふく連盟理事の畑栄次さん。




今回も最後まで読んでくれてありがとう。
他の記事もよろしくね。


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