今回は、2019年3月1日金曜日放送、「チコちゃんに叱られる!」のお話。
なんで「ニホン」と「ニッポン」2つある?
そういえば、使い分けていますね。
元々は、どっちなんだろう?
なんで「ニホン」と「ニッポン」2つある?
本日の2問目。
チコちゃん「ねぇねぇ岡村、この中で一番、自分の国が大好きなステキな大人ってだーれ?」
みなさん、日本が好きということですが、岡村さんが立候補して回答者に。
塚原アナが、「日本」と書かれた紙を持っています。
チコちゃん「あれ、何て読む?」
岡村さん「ニホン!」
チコちゃん「他には?」
岡村さん「ニホンって言ったら、ニッポンって言ってくださいね。って言われるときもある。」
チコちゃん「なんでニホンとニッポン2つあるの?」
岡村さん「漢字は中国から入って来ているので、中国の発音が日本人にはそう聞こえたから。」
チコちゃんは「おー!」
岡村さん「中国の読み方と日本の読み方なんじゃないのですか?日中友好になった時にクシャってなって2つ生まれた。」
チコちゃん「ボーっと生きてんじゃねーよ!」
正解に至らず、叱られちゃいました。
ナレーション「今こそ全てのニホン国民、またはニッポン国民に問います。」
街頭インタビューでも正解なし。
出身国をきかれると、「ニホン」。
スポーツで応援する時は「ニッポン!」という人が多いよう。
ナレーション「やれメンタル面を強化すべきだの、フィジカル面に課題が残るだの、コメンテーター気取りのサポーターの何と多いことか。」
チコちゃんの答えは、「江戸っ子がせっかちだったから」
江戸っ子がせっかちだったから
解説してくれたのは、大東文化大学の山口謠司准教授。
日本の読み方ですが、元々は「ニッポン」。
国名に「日本」を使い始めたのは奈良時代。
奈良時代の人々は、中国から見て太陽が出る方角=日の本(ひのもと)に位置する事から日本という漢字2字を使用。
中国史の文献である新唐書の中にも「それまで倭だったのを日本に改めると使者が伝えに来た」と記載。
奈良時代には日本と書いてヤマトと呼んでいた。
中国語の発音では「ニエットプァン」。
その後、平安時代にかけて中国との国交が盛んに。
中国の僧侶・語学講師によって「ニエットプァン」という呼び名が日本国内で広まります。
しかし、ニエットプァンでは日本人からすると発音しにくい。
ニエットプァン→ニエップァン→ニエップン→ニエッポン→ニッポンへ変化したと推測。
元々はニッポンだったものがニホンと呼ばれるようになったのはいつ頃?
ニホンという呼び名が定着したのは江戸時代。
せっかちな江戸っ子。
早口なのでさらに短縮するためにニホンが生まれました。
奈良・平安時代にはニッポン→室町時代にはニッフォン
江戸時代にニホンになったそう。
東京の日本橋はニホンバシ、大阪の日本橋はニッポンバシ。
現在ではニホンとニッポンのどちらが正しい読み方?
NHK放送文化研究所の主任研究員、塩田雄大さんの解説。
国の正式な名前と言う時はニッポンが基本。
一般名詞については、「ことばのハンドブック」「日本語発音アクセント新辞典」にその指針が掲載されているとのこと。
日本酒と書いてニホンシュなど、それぞれで決まっているらしい。
ニッポンとニホンの読み分けクイズ
第1問 日本料理
にほん料理が正解。
第2問 日本銀行
にっぽん銀行が正解。
第3問 日本犬
ニホン犬、ニッポン犬、どちらでも正解。
第4問 NHK=日本放送協会
ニッポン放送協会
なぜニホンとニッポンが混在した状態のまま一つに統一しない?
このニホン・ニッポン問題は84年間に渡って議論されていて、約10年前に決。
昭和9年・昭和16年に「ニッポン」に統一しようという議題が議会で検討されましたが、結論は保留。
2009年9月30日に衆議院で提出された質問主意書で、「今後、「日本」の読み方を統一する意向はあるか。」
当時の首相であった麻生太郎さん「「にっぽん」又は「にほん」という読み方については、いずれも広く通用しており、どちらか一方に統一する必要はないと考えている。」と答弁。
日本政府の公式見解では、ニホン・ニッポン問題は、どちらでも良いとのこと。
結論
というわけで、
「なんで「ニホン」と「ニッポン」2つある?」は、
「江戸っ子がせっかちだったから」
でした。
塚原アナから補足
日本語には促音である小さな「っ」の音が無くなるという促音脱落という傾向があります。
例えばリス(栗鼠)はリッスが「っ」が省略されてリスに。
ミカン(蜜柑)はミッカンがミカンに。
この促音脱落によってニッポンもニホンになったとのこと。
解説してくれたのは
大東文化大学の山口謠司准教授
山口謠司准教授
山口 謠司(やまぐち ようじ、1963年 – )は、日本の中国文献学者。大東文化大学准教授、博士(中国学)。和辻哲郎文化賞受賞。
佐世保北高等学校卒業。大東文化大学文学部中国文学科卒業後、同大学院修士課程修了。修士課程入学と同時に東洋文庫所蔵『岩崎文庫貴重書解題』作成のため林望の助手となる。博士課程1年の時に東洋文庫研究員。東洋文庫研究員を務めた亀井孝一橋大学名誉教授に師事[1][2]。
1989年よりイギリスケンブリッジ大学大学東洋学部兼任研究員。フランス国立社会科学高等研究院人文科学研究所アジア言語研究センター大学院博士課程後期を経て現職。妻はフランス人[3]。
2012年、大東文化大学博士(中国学)の学位を取得。ケンブリッジ大学のピーター・コーニツキ(Peter Kornicki)と林望による『欧州所在日本古典籍目録』のためにヨーロッパの図書館に所蔵される日本、中国の古典籍を捜索し、目録を作成する。主なものは、ロンドン大学所蔵和刻本漢籍、ヴィクトリア&アルバートミュージアム所蔵日本及び中国古典籍、ルーヴァン・カトリック大学所蔵日本古典籍、スウェーデン国立東洋アジア博物館博物館所蔵日本古典籍、デンマーク王立図書館所蔵日本古典籍、フランス国立国会図書館、パリ・ミッションエトランジェール日本及び中国古典籍、ギメ美術館所蔵日本古典籍、アカデミーフランセーズ所蔵日本古典籍、イタリア・フィレンツェ個人蔵古典籍、ローマ法王庁所蔵日本古典籍、ドイツ国立図書館所蔵日本古典籍など。これらの業績は今、国立国文学研究資料館で公開されている。
2017年、『日本語を作った男 上田万年とその時代』で第29回和辻哲郎文化賞受賞。同年11月より、加賀市「今年のにほんごコンテスト実行委員長」就任。
(Wikipediaより)
大東文化大学(だいとうぶんかだいがく、英語: Daito Bunka University)は、東京都板橋区高島平1丁目9番1号に本部を置く日本の私立大学である。1949年に設置された。大学の略称は大東(だいとう)、大東大(だいとうだい)。
大学全体
大東文化大学は、大正期における日本の政治・経済・社会・文化の近代化の過程で見られた西洋偏重の傾向を是正し、漢学を中心とする東洋文化の振興を図ろうとする木下成太郎による「漢学振興運動」を発端として、1923年(大正12年)の帝国議会衆議院本会議において可決した「漢学振興ニ関スル建議案」に基づき設立された大東文化学院にはじまる。なお、議会の建議案決議で創設された経緯から、特定の創設者は存在しない。
2014年(平成26年)現在、8学部19学科・8研究科を設置している。
(Wikipediaより)
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