今回は、2019年3月15日金曜日放送、「チコちゃんに叱られる!」のお話。
なぜ甲子園はツタで覆われている?
甲子園といえば、りっぱなツタでおおわれていますよね。
でも、なんでだろう?
暑さ対策?
なぜ甲子園はツタで覆われている?
本日の1問目。
チコちゃん「ねぇねぇ岡村、この中で一番、熱血スポーツマンな大人ってだーれ?」
皆さんの推薦で、佐藤さんが回答者に。
チコちゃん「野球は好き?」
佐藤さん「好きですよ。高校野球とか。」
チコちゃん「春の選抜高校野球の試合会場は?」
佐藤さん「どこの会場で?」
チコちゃん「甲子園の選抜よ?どこでやるの?」
佐藤さん「甲子園です。」
チコちゃん「甲子園は知ってるんだ。じゃあ、なんで、甲子園はツタで覆われているの?」
佐藤さん「なぜ?」
いくつかのやり取りの後、
佐藤さん「自然を感じてもらうために緑にしている。」とのこと。
正解に至らず、叱られちゃいました。
チコちゃんの答えは、「手っとり早く外国っぽくしたかったから」
そうだったんだ!
手っとり早く外国っぽくしたかったから
解説してくれたのは、大阪スポーツマンクラブ会長の玉置通夫さん。
甲子園球場は大正13年(1924年)に出来た国内で現存する最古の野球場。
作ったのは大阪と神戸を結んでいた阪神電鉄。
当時、阪神電鉄は並行して走るライバル会社である阪急と熾烈な路線開発競争中。
NHKたぶんこうだったんじゃないか劇場
「ツタと雲と虹と ~甲子園球場誕生物語~」
三崎省三役は鶴見辰吾さん、野田誠三役は山西惇さん。
1905年(明治38年)に大阪と神戸を結ぶ路線を開通させた阪神。
阪急電鉄は農村地帯だった宝塚に路線を通して、住宅地として開発。
さらに温泉と歌劇団を作り、沿線に華やかな街を誕生させて集客。
1920年(大正9年)に、阪急は、大阪神戸間に神戸線を開通させて一気に規模を拡大。
阪急に対抗するために阪神電鉄でもビッグプロジェクトに着手。
オシャレなイメージの阪急電鉄に対し、阪神電鉄が注目したのは当時人気を誇った高校野球。
専務の三崎さんは、野球場を中心とした一大テーマパーク構想を考案。
三崎さん「野田くん。アメリカのヤンキースタジアム知っとるかね?」
時は、世界一の規模を誇ると言われたヤンキースタジアムの建設中。
そのヤンキースタジアムを超える野球場を作りたいという熱意。
しかし、野田さんは本格的な野球場を見たことすらない状態。
あらゆる資料をかき集めて設計に取り掛かる野田さん。
そして3か月後には甲子園球場の設計図が完成。
最もこだわったのは観客席で、客席の前後を広く取って勾配がなだらか。
それでもグラウンド全体を見やすくするという工夫。
しかしこの図面にはツタに関する記述は一切なし。
3月半ばに着工で、8月中の完成。
4か月半で野球場を造って夏の大会に間に合わせろという指令。
現在でも1年はかかると言われる大工事。
機械や工具が発達していない大正時代に4か月半で完成させるという難題。
連休を潰して24時間体制で工事を進め、牛にローラーを引っ張らせるなどの策で対応。
そして、1924年7月31日には甲子園球場完成。
収容人数は、約4万5千人。
当時のヤンキースタジアムに匹敵する世界最大級の野球場。
信じられない速さで完成しました。
これは、建設地にコンクリートの原料となる良質な川砂が大量にあり、強度の高いコンクリートが供給出来たため。
非常に頑丈な造りで、1995年に発生した阪神・淡路大震災でもほぼ被害が無し。
ツタはいつできた?
完成直後の甲子園の写真ではツタの姿はなし。
外壁はコンクリートの壁。
三崎さん「阪急はあないキラキラしとるのに、もっとあちゃら風(外国風)にならへんやろか?」
野田さんは、解決策を探ります。
野田さん「なんやこのあちゃら感は?」
見つけたのは、古いヨーロッパの古城の写真。
その壁にはツタが。
地下水が豊富という立地条件も重なって、植えるだけですくすく育つはず。
レンガ造りやペンキで塗るという方法に比べ、費用面も安く済みます。
こうして1924年の秋から冬頃に甲子園球場の外壁に沿う形でツタが植樹され、甲子園のシンボルに!
結論
というわけで、
「なぜ甲子園はツタで覆われている?」は、
「手っとり早く外国っぽくしたかったから」
でした。
塚原アナから補足
現在の甲子園のツタは1924年に植えられたツタの子孫。
2006年の球場の改装工事の際にツタは一度伐採され、その苗木を全国の高校生が育てて2008年に改装工事後に甲子園に戻したとのこと。
解説してくれたのは
大阪スポーツマンクラブ会長の玉置通夫さん。
玉置通夫さん。
1946(昭和21)年、兵庫県生まれ。1970年早稲田大学文学部卒業後、毎日新聞社入社。1979年9月から大阪本社運動部に在籍し、阪神タイガースや陸上競技などを担当。1986年ソウルアジア大会、1988年ソウル五輪特派員。現在、大阪本社編集委員(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
『甲子園球場物語 文春新書』より
(HPより)
一般社団法人 大阪スポーツマンクラブとは
概念
大阪スポーツマンクラブは、関西におけるスポーツ振興発展に寄与し、あわせて会員相互の交誼の増進を図ります。
沿革
昭和30年10月21日 靭公園竣工。面積3万坪。経費約8千万円
昭和33年06月19日 社団法人大阪スポーツマンクラブ設立許可
昭和34年02月12日 第1回午餐会。以後ゴルフ競技会や水泳講習会を開催
昭和34年09月05日 うつぼだより発刊~ 以後、サッカースクールやテニス教室など各種行事を行う
昭和53年10月10日 大阪府教委から体育功労賞を受賞
平成17年07月06日 スポーツ会館撤去の為、うつぼテニスセンターへ移転
平成18年04月 指定管理制度により、うつぼテニスセンターを運営 奥アンツーカーとうつぼグループ共同企業体を創設
平成20年06月15日 大阪スポーツマンクラブ50周年記念シンポジウム、祝賀会(ホテル阪神)、50年誌発刊
平成22年 厚生年金会館で行われていた四ツ橋大学を引継ぐ
平成24年 大阪スポーツマンクラブ賞を制定
(HPより)
今回も最後まで読んでくれてありがとう。
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