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スリッパって、なんで履くの? → 土足で家に上がるため。明治時代、外国人が靴のまま室内に入れるように作成、日本発祥。

今回は、2019年5月3日金曜日放送、「チコちゃんに叱られる!」のお話。


スリッパって、なんで履くの?





スリッパって、家の中ではくものですよね。


なんで?





スリッパって、なんで履くの?


本日の2問目。


チコちゃん「ねぇねぇ岡村、この中で、おもてなしの精神にあふれるステキな大人ってだーれ?」


岡村さんに言われて、吉沢さんが回答者に。


ちょっとおもてなしをやってみてということで、チコちゃんが、吉沢さんのお家を訪問するという設定。


チコちゃん「ピンポーン!」


ドアを開けて、玄関。


吉沢さんを、チコちゃんにスリッパを出します。


チコちゃん「スリッパってなんで履くの?」


吉沢さん「足のにおいを気にしなくていいように。」


お客様の足のにおいを押させこむという答え。


チコちゃん「ボーっと生きてんじゃねーよ!」


と叱られちゃいました。


チコちゃん「誰の足が臭いのよ!あなた!」


チコちゃんの答えは、「土足で家に上がるため。」


岡村「靴のままという事やね。」



土足で家に上がるため


スリッパの発祥は約150年前の日本。


明治維新の頃に生まれたもの。


明治時代初期、鎖国が解けて日本に西洋の文化が入って来て、制度や習慣が大きく変わった時代。





海外からやって来た西洋人の為に作られたのがスリッパ。


当時、ホテルの整備が十分ではなかった。





宿泊先と言えばお寺か古い町旅館である旅籠。


外国人はシャワーや寝るとき以外は靴を脱ぐ習慣がありません。


靴のままで畳に上がるというトラブルが多発。





このままではダメだという事で、東京で仕立て屋をしていた徳野利三郎さんにスリッパを依頼。





生地はビリヤード台にも使われるラシャ。





形は現代のスリッパと大きく変わりません。


靴を履いたままで履くスタイル。


オーバーシューズのような役割。


スリッパは、外国人が多く訪れる場所に用意されるようになり、徐々に浸透。



当時のスリッパを再現


再現したスリッパをスタッフが実家に帰省した際に使用。





お母さんは、靴の上からスリッパを履いて家に上がる息子をみて、びっくり。



なぜ、スリッパという名前になった?


欧米には元々スリッパ=「slipper(s)」と呼ばれる履物が存在。


足を滑らせて(スリップ)足を入れる事からslipper(s)。


フランスのスリッパ





イギリス





スリッパには様々な形がありますが共通点は室内履き。


シンデレラのガラスの靴もGlass Slippers。





福沢諭吉が書き記した書物「西洋衣食住」





「上沓(うわぐつ) スリップルス」と紹介。





このようにして、Slippersは、スリッパに。





なぜ、スリッパは、日本中に広まった?


外国人の上履きとして靴のまま履いていたスリッパ。


なぜ日本中に広まった?


昭和30年代(1955年頃)。


当時はマンションや団地の建築ラッシュ。


ダイニングキッチンや板の間で西洋風のライフスタイルが多く取り入れられた時代。





その時に、スリッパが西洋文化と勘違いされて一緒に広まったのが流行のきっかけ。


この頃からお店でスリッパの販売コーナーが登場したり、お中元・お歳暮でスリッパを贈る人が多かったそう。


時代は過ぎて、今ではツッコミの小道具や卓球のラケットの代わりに使われたりしているとのこと。



結論


というわけで、


「スリッパって、なんで履くの?」は、


「土足で家に上がるため」


でした。




解説してくれたのは


元「日本はきもの博物館」学芸員の武知邦博さん。


日本はきもの博物館


日本はきもの博物館(にほんはきものはくぶつかん)は、かつて広島県福山市松永町にあった履物をテーマにした広島県の登録博物館である。JR西日本松永駅南口東方に位置し、同じ敷地内に日本郷土玩具博物館も併設されていた。財団法人遺芳文化財団が運営管理していたが、2013年(平成25年)に閉館となる。

かつての松永湾には塩田が広がっており、各地から製塩の燃料として木材が送られていた。その木材を加工する産業としてはじまったのが、下駄の製造である。松永の下駄は日本一の占有率を有しているが、ライフスタイルの変化で産業としては衰退。1878年(昭和53年)に丸山茂助(後のマルヤマ商店)が下駄づくりを始めて100周年を記念して、開館したのが当博物館であった。館長は丸山茂樹、主任学芸員に潮田鉄雄がいた。

博物館の施設はマルヤマ商店の事務所や下駄工場などの設備を活用したもので、かつては博物館内の貯木場跡まで松永湾からの水路があったが、都市計画によって埋め立てられて消滅。また日本で唯一の履物専門の博物館であり、日本だけでなく古代エジプトのサンダルから宇宙服の靴、著名なアスリートが競技で使用した靴など、古今東西の様々な履物が収蔵されていた。収蔵品である約13000点の「はきものコレクション」のうち2266点が国の重要有形民俗文化財に指定されているほか、敷地内にはかつての下駄工場の様子が再現された作業小屋や、岡本太郎による足あと広場があった。

入館者減などに伴う収益悪化と建物の耐震性を理由に併設する日本郷土玩具博物館とともに2013年(平成25年)11月24日をもって閉館。耐震基準に満たない展示館の解体を行った。2015年(平成27年)3月末に福山市は運営していた財団法人の清算法人から博物館を寄付してもらい[1]、日本郷土玩具博物館とともに施設や収蔵品を福山市が引き継いで、収蔵品の選択と整理を行い、同年7月4日には後継施設となる福山市松永はきもの資料館(あしあとスクエア)を当地に開業させた[2]。
(Wikipediaより)




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