今回は、2019年7月5日金曜日放送、「チコちゃんに叱られる!」のお話。
なぜ弟ちゃん妹ちゃんと呼ばない?
確かに、お兄ちゃん、お姉ちゃんといいますが、弟ちゃん、妹ちゃんっていわないですね。
なぜなんだろう?
なぜ弟ちゃん妹ちゃんと呼ばない?
本日の1問目。
チコちゃん「ねぇねぇ岡村、この中で一番、礼儀正しいステキな大人ってだーれ?」
皆さんの暗黙の合意で、寺島さんが回答者に。
チコちゃん「家族では、それぞれどのように呼ぶ?」
寺島さん「名前で呼び合う。」
ふつうは、上の子にはお兄ちゃん、お姉ちゃん、そして、下の子の事は名前で呼びます。
チコちゃん「なんでお兄ちゃんお姉ちゃんとは呼ぶのに弟ちゃん妹ちゃんと呼ばないの?」
寺島さん「名前で呼び合うのでそんな事聞かれても。」
寺島さん「それぞれご家庭で色々あるんじゃない?流儀が。」
チコちゃん「ボーっと生きてんじゃねーよ!」
街中インタビューでも正解なし。
ナレーション「岡村家の隆史くんは、お兄ちゃんになり、お父さんになり、おじいちゃんになり、いつしかお星さまになったのでした。」
チコちゃんの答えは、「家族の呼び方は一番下の子を基準に決まるから。」
家族の呼び方は一番下の子を基準に決まるから
家族間で自分との関係を基準として呼び方を変える事を親族呼称といいます。
日本では目上の家族に対しては親族呼称を使います。
岡村さんの家系図をみてみると。
岡村さんは両親の事を「お父さん」「お母さん」と呼びます。
これは立場上「目上」になるので親族呼称が使われています。
しかし、岡村さんはお父さんから「隆史」と名前で呼ばれます。
同様に、我が子の事は名前で呼びます。
さらにお孫さんを名前で呼びます。
下の子には名前で呼んで、目上の人には親族呼称を使うというこの使い分け。
親族呼称が「名前を直接呼ぶのが失礼にあたるという」という考え方が根底にあるから。
日本人には名字と名前があります。
名字はその人の家系を表し、名前はその人個人を表すもの。
その為に古くから日本では個人を表す名前はとても神聖なもの。
名前で呼ぶというのはその人個人を支配するという意味で、とても無礼な事。
だから家族間でも目上の人には親族呼称を使うのが風習。
ではなぜ下の世代にあたる息子に対して「お兄ちゃん」という親族呼称を使う?
岡村さんのお子さんは名前で呼ばれます。
さらに下の子が誕生したとすると、長男に当たる子は「お兄ちゃん」に変化。
またまた下の子が誕生すると2番目の子は「お兄ちゃん or お姉ちゃん」に。
この一番下の子を基準とするのはなぜ?
これは家庭内の混乱を避けるため。
例えば家族内では父親や母親のお父さん(お母さん)=おじいちゃん(おばあちゃん)という立場の人がいます。
お父さんという呼び名だけだとお父さんが2人いる事になります。
こうなると誰のお父さんの事なのか分かりづらくなります。
そこで一番下の子を基準にして、その子の母親の事が「お母さん」。
祖母の事を「おばあちゃん」と呼ぶことで混乱を回避。
一番下の子を基準にする事で変化していくのが夫婦のお互いの呼び方
「つまりこういうことなんだ劇場」
タイトルは「真知子の嵐」
真知子役は、木村多江さん、その相手役(裕文)は山西惇さん。
第一話は「恋人時代は名前で」
お互いに学生服姿で恋人同士。
お互いを「真知子さん」「裕文さん」と呼びあって駆け落ちする2人。
第二話は「あなたの妻に」
裕文は遺影。
一人生きる真知子でしたが、そこに玄関をノックする音。
そこに立っていたのは亡くなったはずの軍服姿の裕文。
真知子「あなた。。」
裕文「お前。。。」
第三話「妻から母へ」
2人の間には子どもが誕生。
子を抱いて借金取りらしき人に頭を下げる2人。
裕文「すまない。ママ。。」
真知子「あ~あ。パパが小豆に手を出さなきゃねぇ。それと私はあなたのママじゃありません。最近全然名前で呼んでくれない」
裕文「すまない。真知子。。」
真知子「あなた!」
(小豆相場とは小豆の先物取引の事)
最終話「私は真知子」
石油採掘で一財を成しお金持ちになった2人。
孫も誕生して「おばあちゃん、おじいちゃん」に。
裕文「もうおばあちゃんと言っても怒らなくなったね。」
真知子「そんな事もありましたかね。」
にこやかな2人。
急に苦しみ出し、お腹をさすります。
まさかの妊娠。
真知子「もう一度、、お父さんね。」
裕文「おば、、、おか、、真知子!」
真知子「裕文さん!」
おじいちゃん、おばあちゃんになった時点で新たに子をもうけた場合は、またおかあさん、おとうさんに。
結論
というわけで、
「なぜ弟ちゃん妹ちゃんと呼ばない?」は、
「家族の呼び方は一番下の子を基準に決まるから」
でした。
解説してくれたのは
慶応義塾大学名誉教授で言語学者の鈴木孝夫先生。
鈴木孝夫先生
鈴木 孝夫(すずき たかお、1926年〈大正15年〉11月9日 – )は、日本の言語学者・評論家。慶應義塾大学名誉教授。(財)日本野鳥の会顧問。谷川雁研究会特別顧問。国際文化フォーラム顧問。
東京都生まれ。父親は鈴木菫(すずき ただし)、東京府立第四中学校の教諭、書道家、孝夫は夫婦の4番目の末っ子で生まれた。父親は芸事で弟子を作らなかったが、その点孝夫はその性質を継いでいる[1]。1944年慶應大学医学部予科に入学。慶應義塾大学医学部予科修了後、英語を研究したいという思いを捨てきれず[2]、文学部英文学科に編入。半年ばかり肋膜炎に罹患、寝たり起きたりした。1950年、慶應義塾大学文学部英文科を卒業(指導教授は井筒俊彦)。専攻は言語社会学。1950年同じ学校の野口玲子(2015年1月30日死去)と結婚。ガリオア奨学金でミシガン大学に留学した。ミシガン大学では、構造言語学を学び、「文字は言語ではない」という考えに反発を覚えた。カナダマギル大学イスラム研究所研究員、イリノイ大学、イェール大学、ケンブリッジ大学(エマヌエル、ダウニング両カレッジ客員フェロー)、オーストラリア国立大学などの客員教授、ロシア科学アカデミー東洋学研究所客員研究員、フランス国立社会科学高等研究院講師などを歴任。1997 年まで杏林大学教授。
英語公用化論、地球環境論などについても積極的に発言している。英語帝国主義批判の主要な論客としても知られる。
(Wikipediaより)
慶應義塾大学(けいおうぎじゅくだいがく、英語: Keio University)は、東京都港区三田二丁目15番45号に本部を置く日本の私立大学である。1920年に設置された。大学の略称は慶應(けいおう)、慶大(けいだい)。
慶應義塾大学は、中津藩士の福澤諭吉が藩命により江戸築地鉄砲洲(現在の東京都中央区明石町)の中津藩中屋敷内に安政5年(1858年)冬に開校した蘭学塾を起源に持つ大学である[1][2][注釈 1]。慶應4年/明治元年(1868年)に木村摂津守の世話により、芝新銭座(現在の港区浜松町)の有馬家控屋敷跡に移転し、年号をとって「慶應義塾」と塾名を定めた[5][注釈 2]。
明治4年(1871年)、三田(港区三田)の島原藩中屋敷跡地を貸し下げられ(翌年払い下げを受ける)、現本部所在地に移った。1873年(明治6年)に「慶應義塾医学所」を開設[6]。1873年(明治6年)に修業年限を定めて正則・変則両科を新設、1875年(明治8年)に本科・予備科となる。1879年(明治12年)に専門教育課程として夜間法律科(専修学校 (旧制)へ改組:後の専修大学)、理学科、支那語科、簿記講習所を設置。1890年(明治23年)に大学部(文学・理財・法律の三科)を開設[注釈 3]。明治31年に政治科を開設。1917年(大正6年)大学部に医学科を開設して付属大学病院を開院、北里柴三郎が開設に尽力[7]。1920年(大正9年)には大学令による日本最初の私立大学(旧制大学)の一つとして新発足し[8]、文学・経済学・法学・医学の4学部からなる総合大学となり、予科・大学院を付設した。このとき、学事に関する最高意思決定機関として慶應義塾評議員会が設けられた。1942年(昭和17年)に中国大陸および南方の農業開発を目指して農学部を増設しようとしたことがあり(獣医畜産専門学校)、1947年(昭和22年)には獣医師法により指定認可されていた。1944年(昭和19年)に「藤原工業大学」が寄附され工学部を開設。1957年(昭和32年)に商学部を開設。1990年(平成2年)、湘南藤沢キャンパスに総合政策学部・環境情報学部を開設。2008年(平成20年)4月に「共立薬科大学」が合併したことにより、新たに薬学部と薬学研究科を設置。
明治以後、官公私立問わず、近代日本の教育制度、大学制度の立ち上げモデルになり、また後に私立大学となる学校の中で最初に授業料を徴収した[9][10]。日本の私立大学では早稲田大学(「早慶」の早)と共に最も古い段階で大学令に基づく大学となった(詳しくは旧制大学参照)。現在の大学は10学部、大学院は14研究科となっている。
(Wikipediaより)
今回も最後まで読んでくれてありがとう。
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