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苦いのにピーマンを食べるのは政府の規制外で大量生産可能、青色信仰、戦後野菜不足を救った救世主

今回は、2018年7月20日放送、「チコちゃんに叱られる!」のお話。

「なぜ苦いのにピーマンを食べる?」だよ!



ピーマンの肉詰め、今は好きだけど、小さい頃はきらいだったなぁ。

単に栄養があるからと知識がついたから??

違うのかなぁ。


なぜ苦いのにピーマンを食べる?


チコちゃん「子どもの質問になんでも答えてくれる素敵なママってだれ?」ということで、唯一の女性ゲスト、藤本さんが回答者に。

「全国の5歳児からの質問」ということで、チコちゃんからの質問。


「なぜ苦いのにピーマンを食べる?」


藤本さん「嫌いなものに慣れさせるためや、ピーマンにしか含まれない栄養素があると信じているから」


というわけで叱られちゃいました。


戦後の日本を救った偉い野菜だから



子どもが嫌いな野菜の代表とも言えるピーマン。


解説はお茶の水女子大学の森光康次郎教授。


そもそもピーマンとはナス科トウガラシ属の野菜でトウガラシの兄弟。


ピーマンは中南米が原産。


大航海時代にコロンブスがヨーロッパに持ち帰ったことで普及。


その後1774年にアメリカで品種改良、現在のような丸く太った形になったとのこと。




ピーマンが日本に上陸したのは明治時代。


昭和12年に掲載された新聞のレシピ記事では、「ピーマン(袋形の青唐辛子)」と詳しく説明されていました。




当時の庶民にはなじみのない野菜だったとのこと。


ピーマンが普及した理由


第二次世界大戦後の日本では物不足。


闇市では戦前と比べて物価が10倍以上に跳ね上がったんだ。


そこで、政府は物価統制令で野菜や魚、生活用品などの価格が不当に高騰することを予防。


この勅令のため価格は半額から三分の一まで下げられたとのこと。


値段が下がれば買う人が増加し、さらに深刻なモノ不足に。


野菜も例外ではなく、昭和22年のニュース映像でも、野菜不足が放送されてました。


当時、多くの野菜は、国の政策のため自由に売買出来ませんでしたが、ここにピーマンが広まるきっかえが。


ピーマンは当時の日本では無名に近い存在で国の規制対象からは外れていたとのこと。


戦後にピーマンが広まった理由


1.自由に流通できた




規制外のピーマンは農家や市場関係者にすると「自由に売買できる野菜」


簡単に言えば、規制外なので、「勝手に作って勝手に売ってもよい野菜」


2.大量生産可能


ピーマンは多産・多収穫な野菜。


苗を植え花が咲いてから2週間程度で実がなる。


しかも1本の苗から約40個の実が収穫可能。


さらに、実を収穫してもまた実がなり、1本の苗から年間100個ほど生産可能。


3.青物信仰


人間には青い野菜、葉物を食べたいという「青物信仰」があるんだ。


だから、緑の野菜に惹きつけられるんだね。


上記理由から戦後に爆発的に普及したピーマンは、戦後の庶民の食卓を救った野菜となったんだ。


青果市場の格言として、「関東大震災後のトマト、戦後のピーマン」といわれたほど!




ピーマンは本当に重宝されたんだね。


緑のピーマンがそのまま育つと赤くなる。


緑のピーマンは未熟な果実で、そのまま時間がたつと完熟の赤いピーマンに。


完熟すると甘くなって苦味が目立たなくなるんだって。


その期間は約1か月ぐらい。


また、その栄養価も、赤ピーマンのほうが上。




赤ピーマンの欠点は?


収穫後の保存期間が短くなってしまうこと。


緑ピーマンが開花から約20日、赤ピーマンが開花から約50日。



さらに1か月収穫がおそくなると栽培の手間もコストも高くなります。


というわけで緑のピーマンが主体となっているとのこと。


というわけで、


「苦いのにピーマンを食べのは、戦後の日本を救った偉い野菜だから」


でした。



チコちゃんの好きなピーマン料理は「おみそだけでいいかな。」だったよ。


また、中目黒の串焼き屋で、ピーマンを半分に割ってチーズを入れて、豚バラを薄く巻いて焼いて出してくれるメニューがお気に入り。


(注)ピーマンが普及したのは諸説あります。

戦後、米軍がピーマンの栽培を日本の農家に勧めたから。

食事が欧米化して肉や油との相性がいいため広まったという説



解説してくれたのは


お茶の水女子大学の森光康次郎教授


森光康次郎教授


お茶の水女子大学 生活科学部 食物栄養学科


森光 康次郎

MORIMITSU Yasujiro

職名

教授

所属

基幹研究院 自然科学系

人間文化創成科学研究科 博士後期課程 ライフサイエンス専攻

人間文化創成科学研究科 博士前期課程 ライフサイエンス専攻

生活科学部 食物栄養学科

■廃止組織■ 糖鎖科学教育研究センター

研究推進・社会連携・知的財産本部【基盤部門】 共通機器センター

研究推進・社会連携・知的財産本部【基盤部門】 動物実験施設

主担当学科

生活科学部食物栄養学科

担当大学院(博士前期課程)

人間文化創成科学研究科ライフサイエンス専攻食品栄養科学コース

担当大学院(博士後期課程)

人間文化創成科学研究科ライフサイエンス専攻食品栄養科学領域
(大学HPより)



お茶の水女子大学


お茶の水女子大学(おちゃのみずじょしだいがく、英語: Ochanomizu University)は、東京都文京区大塚二丁目1番1号に本部を置く日本の国立大学である。
1949年に設置された。
大学の略称は「お茶大」「お茶女」など。

同学は1875年に開校した官立の東京女子師範学校が起源である。1885年に東京師範学校の女子部となり合併されたが、1890年に分離し女子高等師範学校となる。1908年、奈良女子高等師範学校(現 奈良女子大学)の設置に伴い東京女子高等師範学校と改称する。第二次世界大戦後の1949年、国立学校設置法により新制大学「お茶の水女子大学」となり、国立の女子大学として現在に至る。

当初は東京師範学校とともに御茶ノ水にあった。1923年に発生した関東大震災で校舎を焼失したことや、東京女子高等師範学校の敷地の一部を間借りしていた東京高等歯科医学校(現在の東京医科歯科大学)が建物の拡張の必要に迫られたことなどから、東京師範学校とともに現在の大塚の地に移転した。

大塚の地にあるので校名を「大塚女子大学」にしようとする話も持ち上がったが、「塚」の字は墓を意味するので縁起が悪いという反対があり、学校発祥の地である「お茶の水」を名乗ることとなる[1]。学校発祥の地の最寄り駅は御茶ノ水の表記だが、大学の最初の「お」と中の「の」は平仮名表記である。現在は、茗荷谷駅・護国寺駅近く、正門はちょうど日本図書センターの向かいにある。

国立の女子大学は、お茶の水女子大学と奈良女子大学の2校のみであり、女子大の双璧として、長年にわたり多数の人材を輩出してきた。

一般社団法人桜蔭会は、お茶の水女子大学卒業生の同窓会である。
(Wikipediaより)




今回も最後まで読んでくれてありがとう。
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2018年6月29日放送、第12回「チコちゃんに叱られる!」の放送内容は、下記の各回放送・放送日別一覧ページからどうぞ!


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