今回は、2022年5月20日金 チコちゃんに叱られる!「▽ニラレバとレバニラ▽フォークの謎▽なぜ110番 初回放送日: 2022年5月20日」の番組内容を紹介。
なんで警察は110番で消防は119番なの?
なんで警察は110番で消防は119番なの?
本日の最後の話題。
チコちゃん「ねぇねぇ岡村、この中で一番、正義感あふれるステキな大人ってだーれ?」
本日は先発していない岡村さんが回答者に。
チコちゃん「なんで警察は110番で消防は119番なの?」
岡村さん「ダイヤル式電話だと1が一番早く回せる数字、0は一番時間がかかる。1と1は早い、落ち着けの0。0を回している間に冷静になるため。」といった趣旨の回答。
正解に至らず、られちゃいました。
VTRでは、ひとり警察24時の芸でおなじみの柳沢慎吾さんに同じ質問。
柳沢さん「元々警察は110人しかいなかった。消防は119人だったから。」
出張用チコちゃんにられちゃいました。
チコちゃんの答えは、「みんなのクセが抜けなかったから」
みんなのクセが抜けなかったから
解説してくれたのは、立命館大学の坂田謙司教授。
警察の110と消防の119
先に決まったのは消防の119番。
元々消防は112番だったという過去もあってこれには日本の電話の歴史が深く関わっています。
日本で民間電話サービスがスタートしたのは1890年。
その当時の電話機にはボタンもダイヤルも無し。
現在の一般的な固定電話(プッシュ式)の使い方は、
1.受話器をあげる
2.かけたい番号を押す
3.相手につながる
というシンプルな手順。
一方、当時の古い電話の場合は、ボタン無し、ダイヤルも無し。
1.受話器を上げてフックを押す
2.電話交換局の交換手スタッフにつながる
交換スタッフ「交換です。何番におかけしますか?」と聞かれる
「番号○○をお願いします」と答える
3.かけたい相手の電話番号を伝えると交換手が手動でつなぎます
ところが利用者や電話の数が増えるにつれてこの取り次ぎ作業が追い付かなくなるという事態に。
交換手が手動で繋ぐので交換手の作業が滞るといつまでも待たされるので非常に不便。
そこで1926年に交換手を排した自動交換方式を導入。
1.受話器を持ち上げて
2。かけたい相手の電話番号をダイヤルで回す
3.と相手の電話に直接つながる
このように簡単になりました。
このダイヤル式電話の登場に合わせて消防の番号が制定されました。
その番号は112番。
消防に電話する時は一刻を争う時のはずなので指を回す手間が少ない112。
111にすると子供が遊びで電話をイジってうっかり消防につながってしまうという事も考えられたために最後の1桁だけは2に。
ところがこの112番にも問題が発生。
というのも交換手がいた時代、交換手が取り次がないと相手につながりません。
この場合、交換手にアピールするために、多くの人がフックの部分をガチャガチャと操作。
交換手にアピール。
このガチャガチャする癖は、自動交換式の時代になってもうっかり出てしまいます。
システム的に、自動交換式の電話はフックを1回ガチャとすると、自動的に1番が入力された状態になってしまう構造。
ガチャガチャ=11 のダイヤルを回した状態に。
そこで次の番号2を回したとすると、その瞬間に112番を呼び出してしまい消防へつながることに。
この間違い電話が頻発。
そこで、112番が導入された翌年の1927年には119番へ変更。
当時の局番は9から始まる物が無かったので、これで間違い電話を減らそうと考えました。
消防が119番に制定されたことで、クセでガチャガチャしても消防への間違い電話は防げるようになりました。
そして警察の110番が制定されたのは1948年と消防の119番に遅れる事21年。
戦後の日本の治安が悪化した事からすぐに警察に繋がるように番号が決められました。
戦前の警察というのは国を侮辱したり、政府の方針に従わなかったりする市民を取り締まる威圧的な存在。
現在の警察像とは、だいぶ異なります。
これが戦後になると街の治安を守ったり、トラブルに見舞われた市民を助ける存在へとその役割が変化。
こうして警察への直通番号が必要に。
当時の警察の番号は東京が110番、名古屋118番、大阪・神戸・京都1110番などバラバラ。
これだけ地域によってバラバラだとはかけ間違いも増えてしまいます。
そこで、6年後に1954年の新警察法が施行されました。
1.覚えやすい番号
2.かけ間違いが少ない番号
3.ストッパーまで近い「1」が多い。
との理由で、全国で110番に統一されました。
結論
というわけで、
「なんで警察は110番で消防は119番なの?」は、
「みんなのクセが抜けなかったから」
でした。
解説してくれたのは
立命館大学の坂田謙司教授。
サカタ ケンジ
坂田 謙司
SAKATA Kenji
所属産業社会学部 現代社会学科
職名 教授
1. 社会学研究科
学歴
1. 中京大学 博士(社会学)
所属学会
1. 情報通信学会
2. 日本マス・コミュニケーション学会
研究テーマ
1. 世代間交流における地域ラジオの活用
2. 地域とラジオの接点は何か
3. 地域独自の音声メディアの歴史を掘り起こす
4. 記憶共有と地域ラジオの接点
研究概要
音声メディアの歴史とローカリティ研究、ラジオ研究
日本の各地に存在していた有線放送や地域独自の音声メディアの歴史を、フィールド調査と資料発掘・分析を通じて研究する。
特に、その音声メディアがなぜその地域に生み出され、誰が生み出し、どのような歴史を持っていたのかを明らかにすることを主な目的としている。
これまでに、北海道を中心とした有線放送の調査・分析を行い、2005年の科研費において「北海道の有線放送の歴史」調査を行い、2008年度科研費において「占領期沖縄・奄美のローカルメディア研究」を行っている。
地域独自のメディアに関する資料は、もともと少ない上に多くが廃棄されていて、なかなか発見することができない。そんななかで、数少ない貴重な資料を探し出し、分析することで、メディアが地域社会やそこで生活する人々と強い結びつきを持っていることが明らかになってくる。それは、市民メディアという単純な視点ではなく、人々のメディアに対する欲求と不可分なのである。その欲求とはいかなるものだったのか、その源には何があったのかを明らかにすることで、現在のメディア状況や地域とメディアとの関係をより深く分析できると考えている。
(大学HPより)
立命館大学(りつめいかんだいがく、英語: Ritsumeikan University)は、京都府京都市中京区西ノ京朱雀町1に本部を置く日本の私立大学である。1922年に設置された。大学の略称は立命、立命大。近畿地方では立大も使用される[注 1]。
大学全体
「立命館」の由来は、『孟子』盡心章句(じんしんしょうく)にある「殀寿貳(ようじゅたが)わず、身を修めて以て之を俟(ま)つは、命を立つる所以(ゆえん)なり」(人間の寿命は天命によって決められており、修養に努めてその天命を待つのが人間の本分である)から採られた。
建学の精神
建学の精神は「自由と清新」である。教学理念は「平和と民主主義」である[1]。
立命館憲章
学問研究の自由に基づき、価値の創造と人類的諸課題の解明に力を入れる。建学の精神と教学理念に基づき、「未来を信じ、未来に生きる」の精神をもって、学力精進を保ったうえで、正義と倫理をもった地球市民として活躍できる人間の育成に努める。この憲章の本旨を踏まえ、教育・研究機関として世界と日本の平和的・民主的・持続的発展に貢献する。[2]
理事長・総長(学長)・副学長
理事長 森島朋三
総長・立命館大学長 仲谷善雄
副総長・立命館大学副学長 松原洋子
副総長・立命館大学副学長 伊坂忠夫
副総長・立命館大学副学長 徳田昭雄
学風および特色
末川博記念碑(衣笠キャンパス)
末川博 名誉総長のことば「未来を信じ 未来に生きる」が刻まれる記念碑。末川記念会館前の木立に立つ。
従来、立命館大学は戦前から戦中にかけて、世相を反映して国家主義的傾向が強まっていったとする評価が支配的であった[注 2]。しかし最近の研究で、学園創立者の中川小十郎は、学校運営や学生の受け入れに対して国家主義的な思想に与せず、従来考えられていたよりも自由な空気を大事にしていたことが明らかにされつつある[3]。
滝川事件(立命館大学では「京大事件」と呼称)の際には、同事件に連座して京都帝国大学を退官した教員を受け入れているが、これは中川小十郎が重視した自由な空気に理由があったのではないかとする最近の研究もある[4][注 3]。終戦直後には、同事件に連座した、京都大学法学部教授の末川博を総長へ招聘した。その末川を中心に大学の改革へ乗り出す。憲法と教育基本法を尊重して「平和と民主主義」を守ろうという末川の思想が中心となって、立命館大学は「民主的な学園運営」「自主的学習の尊重」の2本柱によって構成され、以下に記載する取り組みが現在の立命館大学に至るまで実施され続けている。末川が立命館大学に与えた影響は極めて大きく[5]、これらの功績を讃えて、同大学では末川を名誉総長として顕彰している。また、末川が構成した思想を「立命館民主主義[6][7]」と呼んでいる。
(Wikipediaより)
今回も最後まで読んでくれてありがとう。
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