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なんで赤ちゃんは頭が大きいの?→この世界に生まれるという大きな試練を乗り越えるため

今回は、2022年7月8日金 チコちゃんに叱られる! 「▽ポテトチップスの謎▽浴衣とは▽赤ちゃんの不思議 初回放送日: 2022年7月8日」の番組内容を紹介。



なんで赤ちゃんは頭が大きいの?





なんで赤ちゃんは頭が大きいの?


本日の最後のの話題。


チコちゃん「ねぇねぇ岡村、この中で赤ちゃんのお世話をしている姿がステキな大人ってだーれ?」


赤ちゃん育て中の岡村さんがが立候補して回答者に。


チコちゃんは、赤ちゃんの体に比べて頭が大きいことを指摘。


チコちゃん「なんで赤ちゃんは頭が大きいの?」


岡村さんの口元に正解マークが!


チコちゃん「まぁまぁまぁギリギリつまんねーヤツだけどいいだろう。」


と岡村さん、チコリました!


チコちゃんの答えは、「この世界に生まれるという大きな試練を乗り越えるため」



この世界に生まれるという大きな試練を乗り越えるため


解説してくれたのは、慶應義塾大学の皆川泰代教授。


生まれる前、赤ちゃんというのは生きるための活動の多くをお母さんに代行してもらっています。


へその緒を通じて栄養や酸素をもらったり、お腹の中で暑さ寒さを感じる事もありません。





そして、すくすく成長。


このように胎児時代の赤ちゃんは自ら体の機能を働かせる必要はそんなになく育っていきます。


外の世界に出ると環境は一変。


まぶしい光、音、気温の変化、重力といった強烈な変化を一気に体感。


自律して呼吸し酸素を自らとりいれます。


また、栄養を摂るために自分の口でミルクを飲まなければなりません。


そんな大きな試練を乗り越える時に大活躍するのが脳。


呼吸をするように指示を出すのは脳の役目。


体温調整するのも脳。


また、生まれてから1~2年で指を動かす、歩く、喋るなど体のあらゆる機能を一気に成長させる必要があります。


これらを司るのは結局全て脳。


このように脳はこの世に生まれた瞬間からフルパワーで活動し続ける必要があります。


その為に胎児はお母さんのお腹の中で脳を最優先にそして最大限成長させます。


脳が一番大事なので赤ちゃんは体に比べて頭が大きくなります。


バランス的には頭の大きさが体の四分の一を占める四頭身ぐらいが普通。





その後も頭がどんどん成長し5歳頃でようやく頭の成長が止まります。


そこからは体だけどんどん大きくなっていくので相対的に頭が小さくなります。


20歳頃には平均して七頭身から八頭身に。


また、大人は頭が大きい赤ちゃんを見ると「かわいい。守ってあげたい。」と本能的に思うというメリットもあります。



これは以前の放送で、他の動物も含めた多くの赤ちゃんに共通する特徴(=ベビーシェマ)が関係しています。








体に対して頭が大きい丸いフォルム

大きな目が顔のやや下にある

このように赤ちゃん的なルックスは大人を惹きつけて守ってあげたい対象になります。



ちなみに人間以外の動物の赤ちゃんも体に対して頭が大きい状態で生まれてくるケースが多いとのこと。


しかし、人間の赤ちゃんの頭の大きさはかなり大きく別格。


これは人間社会で生きていくための高度なコミュニケーション能力が備わった脳を必要とするから。


赤ちゃんがお母さんと見つめ合ったり、お母さんの視線の先を追ったりという行動は人間の赤ちゃん特有の行動とのこと。


目によるコミュニケーションも大事な能力。



大人でかわいい人の頭を大きくしたらとんでもなくかわいくなる?





最後はファッションモデルさんの頭を大きくして終了





結論


というわけで、


「なんで赤ちゃんは頭が大きいの?」は、


「この世界に生まれるという大きな試練を乗り越えるため」


でした。



解説してくれたのは


慶應義塾大学の皆川泰代教授


皆川 泰代 (ミナガワ ヤスヨ)
Minagawa, Yasuyo

所属(所属キャンパス)
文学部 (日吉)

職名
教授

HP
http://psy.flet.keio.ac.jp/staff/minagawa.html

2000年04月 – 2001年03月 東京大学, 大学院医学系研究科, 客員研究員
2000年11月 – 2001年03月 国立身体障害者リハビリテーションセンター, 研究所, リサーチレジデント
2001年04月 – 2004年03月 国立国語研究所,日本学術振興会, 日本学術振興会特別研究員PD
2004年04月 – 2006年03月 慶應義塾大学文学部心理学専攻・科学技術振興機構, 研究員
2006年04月 – 2007年06月 University College London(UCL), Dept. Medical Physics,Dept. Human Communication Science, 訪問研究員(Visiting Research Fellow)
2006年04月 – 2008年08月 フランス ENS-EHESS-CNRS, 研究員
2006年11月 – 2007年06月 UCL Hospital, NHS., 訪問研究員(Honorary Research Fellow)
2007年04月 – 2013年03月 (独)理化学研究所, BSI言語発達研究チーム, 客員研究員
2008年10月 – 2013年03月 慶應義塾大学, 大学院社会学研究科, 特任准教授
2013年04月 – 2017年03月 慶應義塾大学, 文学部, 准教授
2017年04月 – 継続中 慶應義塾大学, 文学部, 教授

学歴
1989年04月 – 1993年03月 国際基督教大学, 教養学部, 語学科
大学, 卒業

1994年04月 – 1996年03月 国際基督教大学, 大学院比較文化研究科, 日本語学・日本語教育学
大学院, 修了, 修士

1996年04月 – 2000年03月 東京大学, 大学院医学系研究科, 脳神経医学専攻認知・言語医学講座修了
大学院, 修了, 博士後期

学位
博士(医学), 東京大学, 課程, 2000年09月

研究分野
Cognitive Neuroscience, Developmental Psychology, Psycholinguistics
(大学HPより)



慶應義塾大学


慶應義塾大学(けいおうぎじゅくだいがく、英語: Keio University)は、東京都港区三田二丁目15番45号に本部を置く日本の私立大学である。1920年に設置された。大学の略称は慶應(けいおう)、慶大(けいだい)。「應」が旧字体のため、報道などでは「慶応」と表記されることもある。

概説

文久2年(1862年)、江戸築地鉄砲洲中津藩中屋敷内にあった蘭学塾「慶應義塾」(画面中央左側築山下の平地)。
慶應義塾大学は、中津藩士の福澤諭吉が藩命により江戸築地鉄砲洲(現在の東京都中央区明石町)の中津藩中屋敷内に、1858年(安政5年)に開校した「蘭学塾」を起源に持つ大学である[1][2][注釈 1][注釈 2]。淵源は、1796年(寛政8年)設置の国学藩校「進脩館」まで遡り[3]、1839年(天保10年)に開塾した「象山書院」及び江川英龍の「韮山塾[4]」等旧私塾の流れを汲む[注釈 3]。

1863年(文久3年)、蘭学塾から英学塾に変わると、旧幕臣の吉田賢輔等を教授に迎え、1868年(慶應4年/明治元年)前年に木村摂津守の世話により、芝新銭座(現在の東京都港区浜松町)の有馬家(久留米藩)控屋敷跡に移転し、年号をとって「慶應義塾」と塾名を定めた[5][注釈 4]。なお、「義塾」とは英語の「パブリックスクール(public school、共立学校)の訳語とされ[5]、このとき、中津藩江戸藩邸の蘭学塾から近代私学としての一歩を踏み出した。まもなく、1866年(慶応2年)に親藩である紀州藩(紀州徳川家)の命を受けて藩士を迎えて塾舎内に「紀州塾」を開設[7][8][注釈 5]。この他、幕末にかけては「志摩三商会」に脈絡のある三田藩の藩政改革に携わる。

1871年(明治4年)に、三田(港区三田)の島原藩中屋敷跡地を貸し下げられ(翌年払い下げを受ける)、現本部所在地に移った。明治以後、官公私立問わず、近代日本の教育制度、大学制度の立ち上げモデルになり、また後に私立大学となる学校の中で最初に授業料を徴収した[9][10]。廃藩後の1880年(明治13年)までの生徒の割合は、慶應義塾の三藩(越後長岡藩、紀州藩、中津藩)を中心とした士族が十中八九であった[11]。

1873年(明治6年)に「慶應義塾医学所」を開設[12]。同年10月には分校「大阪慶應義塾」[13]と「京都慶應義塾」(京都集書院)[14]を設立。また福澤諭吉や松下元芳が塾頭を務め、塾生が一部移籍してきた適塾(大阪帝国大学医学部)から受けた影響は特に大きく、大阪とのゆかりが深い。

1873年(明治6年)に修業年限を定めて正則・変則両科を新設。1875年(明治8年)に本科・予備科となる。1876年(明治9年)に土佐立志学舎(高知県)の運営に参画。1877年(明治10年)に神戸商業講習所(兵庫県)を開校。同年に本科第三等以上修了者に徴兵免役の指令が出され、1896年(明治29年)に改正微兵特典適用、1899年(明治32年)に海軍少主計候補生(主計少尉候補生)の受験資格を得た。

1878年(明治11年)には分校「三菱商業学校(明治義塾)」設置に参画。1879年(明治12年)に専門教育課程として夜間法律科(専修学校 (旧制)へ改組:後の専修大学)、理学科、支那語科、簿記講習所を設置。1880年(明治13年)には興亜会へ参画。その他、主な関連校に藍謝堂(高島学校)や高山歯科医学院、耕余義塾、亮天社、三田英学校等がある。

1890年(明治23年)に大学部(文学・理財・法律の三科)を開設[注釈 6]。1898年(明治31年)に政治科を開設。1917年(大正6年)、大学部に医学科を開設し、北里柴三郎が医学科学長として尽力した[15]。1920年(大正9年)には大学令による日本最初の私立大学(旧制大学)として新発足し[注釈 7]、文学部、経済学部、法学部、医学部の4学部からなる総合大学となり、予科と大学院を付設した。このとき、学事に関する最高意思決定機関として大学評議会が設けられ[16]、11月には慶應義塾大学病院も開院した。太平洋戦争下の1942年(昭和17年)に中国大陸および南方の農業開発を目指して農学部を増設しようとしたことがあり(獣医畜産専門学校)、戦後の1947年(昭和22年)には獣医師の免許を得ていた。

1944年(昭和19年)に藤原工業大学が慶応に寄附され、工学部を開設。1957年(昭和32年)に商学部を開設。1990年(平成2年)、湘南藤沢キャンパスに総合政策学部と環境情報学部を開設。2008年(平成20年)4月に共立薬科大学が合併したことにより、新たに薬学部・薬学研究科を設置した。

卒業生は明治初期、官吏、教育界が主流であったが、明治十四年の政変の後、漸次に経済人、実業家が勃興するようになる。また、1880年(明治13年)に日本最古の社交倶楽部「交詢社」を設立した[17]。現在の大学は10学部、大学院は14研究科となっている。
(Wikipediaより)




今回も最後まで読んでくれてありがとう。
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