今回はチコちゃんに叱られる! ▽ハイタッチの謎▽マフラーの謎▽毒のイメージは? 初回放送日NHK総合テレビジョン2026年1月23日(金)午後7:57を紹介。
なんで毒といえば紫色なの?

なんで毒といえば紫色なの?
チコちゃん「ねぇねぇ岡村、この中で一番、辛辣なことを言っちゃう毒舌な大人ってだーれ?」
チコちゃん「なんで毒といえば紫色なの?」
チコちゃんの答えは、「ドラクエが毒の沼地を紫色にしたから。」
ドラクエが毒の沼地を紫色にしたから
「毒といえば紫色」なのはなぜ? 実はあの国民的ゲームが犯人だった!?
アニメやゲームで「毒」を表現するとき、決まって使われるのは紫色ですよね。
ドロドロした紫色の沼や、紫色の煙を見れば、誰もが「あ、これは危ない!」と直感します。
でも、この「毒=紫」というイメージ、実は日本特有の文化だということをご存知でしょうか?
世界的に見ると、全く別の色が「毒」の象徴とされているのです。
ゼビウスの生みの親として知られる遠藤雅伸教授の解説を元に、この色の謎を解き明かしましょう!
世界の常識は「毒=緑色」だった!
番組が外国人200人に調査したところ、圧倒的に多かった答えは「緑色」でした。
これには、18世紀のヨーロッパで起きたある悲劇が関係しています。
かつてヨーロッパでは「シェーレグリーン」や「パリグリーン」という鮮やかな緑色の顔料が大流行しました。
壁紙やドレスなど、あらゆるものに使われたのです。
しかし、この顔料には猛毒の「ヒ素」が含まれていました。
この緑色の製品を使った人々が、次々と原因不明の病で亡くなる事態に。
あのナポレオンの死因も、寝室の緑色の壁紙に含まれたヒ素だったという説があるほどです。
この恐ろしい歴史から、世界中で「緑色は毒の色」というイメージが定着しました。
実際に、一昔前の日本の推理小説でも、毒の文字は緑色で書かれることが多かったのです。
かつて「紫色」は日本で最も尊い色だった
一方で、昔の日本では紫色に対して全く逆のイメージを持っていました。
聖徳太子が定めた「冠位十二階」では、紫色は最も位が高い色とされていました。
当時の紫色の染料は非常に希少でした。
そのため、高貴な身分の人しか身につけられない「憧れの色」だったのです。
しかし、19世紀にイギリスで合成染料が発明され、紫色の布が大量生産できるようになります。
これにより「紫=高貴」というイメージは世界中で徐々に薄れていきました。
革命を起こしたのは『ドラゴンクエスト』!
「紫=高貴」から「紫=毒」へと、日本人のイメージを180度変えた立役者。
それこそが、国民的RPG『ドラゴンクエスト』です!
初期のファミコン版ドラクエでは、毒の沼地は世界基準に合わせて緑色でした。
しかし、1993年に発売されたリメイク版(スーパーファミコン)で、劇的な変化が起こります。
なぜ「紫色」が選ばれたのか?
ハードの性能が上がり、使える色が増えたとき、開発チームは色の割り振りを考えました。
青色 = 海・水
赤色 = マグマ・炎
緑色 = 草原・森
茶色 = 地面・岩
こうして主要な色が埋まっていく中で、最後に残ったのが「不気味でダークなイメージを持つ紫色」だったのです。
このドラクエの変更が、その後の日本のゲーム業界に衝撃を与えました。
「ゲームの文法」として定着した紫色
ドラクエの「毒の沼地=紫色」という表現は、瞬く間に他のゲームにも広がりました。
慶應義塾大学の國本学史先生によると、ドラクエでこの体験をした世代が、のちにゲームクリエイターになりました。
彼らが自分たちの作品でも「毒=紫」という表現を使い続けた結果、一つの「文化」ができあがったのです。
今では「紫色にしておけば、説明しなくても毒だと伝わる」という、一種の共通言語(ゲームの文法)になりました。
私たちの「毒=紫」という感覚は、ここ30年ほどの間にゲームによって作られたものだったのですね。
まとめ
「毒といえば紫色」というイメージの裏には、歴史的な顔料の悲劇と、日本のゲームクリエイターたちの試行錯誤がありました。
もし、ナポレオンの時代の壁紙が紫色だったら……。
あるいは、ドラクエの毒の沼地が別の色だったら……。
今ごろ私たちは、毒に対して全く違う色を想像していたかもしれませんね。
結論
というわけで、
「なんで毒といえば紫色なの?」は、
「ドラクエが毒の沼地を紫色にしたから」
でした。
解説してくれたのは
あのゼビウスの生みの親で東京工芸大学の遠藤雅伸客員教授。
遠藤 雅伸(えんどう まさのぶ、1959年2月23日 – )は、日本のゲームクリエイター、東京工科大学博士(工学)[1]。元東京工芸大学芸術学部ゲーム学科教授[2]。 株式会社ゲームスタジオ創業者、元日本デジタルゲーム学会会長[3]、宮城大学客員教授、株式会社JAGMO名誉会長、慶應義塾大学大学院特別招聘教授。「ゲームの神様」の異名を取っていたこともある[4]。東京都渋谷区出身。
来歴
井草八幡幼稚園、横浜市立つつじヶ丘小学校(上石神井小学校から転校)、横浜市立田奈中学校[5]、神奈川県立横浜翠嵐高等学校、千葉大学工学部画像工学科卒業。
1981年、ナムコ入社。研修時に『ディグダグ』のテストプレイを行い、その際に書き留めたテクニックのメモが中村雅哉社長(当時)の目に留まり、豆本「ディグショナリー」として出版される[6]。1983年にシューティングゲーム『ゼビウス』のゲームデザイン・プログラム・グラフィックを担当、大ブームを巻き起こす。以降『ドルアーガの塔』『グロブダー』などを手がける。
1985年に独立し、株式会社ゲームスタジオを設立。『イシターの復活』『カイの冒険』『ザ・ブルークリスタルロッド』といったバビロニアン・キャッスル・サーガシリーズや、『ファミリーサーキット』『ケルナグール』(以上ナムコ)『機動戦士Ζガンダム・ホットスクランブル』(バンダイ)『エアーズアドベンチャー』などのゲームデザイン・開発、ファミリーコンピュータ版『ウィザードリィ』シリーズ(アスキー)の移植プロデュース、『いただきストリート』のディレクション等を手がける。
また、携帯電話用アプリケーションにも早期から参入し、2004年4月21日に株式会社モバイル&ゲームスタジオを設立。『三国志年代記』『ケータイ社長』『右脳パラダイス』『ビーチバレーガールしずく』などのタイトルを手がけている。また2008年放映のテレビアニメ『ドルアーガの塔』およびMMORPG『ドルアーガの塔 The Recovery of BABYLIM』では、スーパーバイザーを務める。
2014年より、東京工科大学大学院に進学[7]。「ゲーム研究者」としての学位取得が目標で、盟友の飯野賢治の死が大きな契機になったという[8][9]。2020年、博士課程を修了し、博士(工学)を修得[1]。2022年より、日本デジタルゲーム学会会長[10]。
一般社団法人コンピュータエンターテインメント協会(CEDEC)が主催する「PERACON」においては審査委員長を務めていた。しかし、2019年と2020年に開催された「PERACON2019」および「PERACON2020」において、遠藤を含む数名の審査員が、参加者や参加者の所属企業への誹謗中傷を含むコメントや参加者への加害を示唆するコメントを残した。結果発表直後、これらのコメントはパワハラではないかと問題視され、「PERACON2020」のすべての審査員コメントが公式ウェブページから抹消される事態となった[11][12][13]。
2024年、3月をもって東京工芸大学を退職。3月15日に最終講義を行った[14]。
(Wikipediaより)
今回も最後まで読んでくれてありがとう。
他の記事もよろしくね。
過去放送日別一覧ページ
