今回はチコちゃんに叱られる! ▽たぬきの置物の謎▽干し柿の謎▽敬礼の謎 初回放送日NHK総合テレビジョン2026年4月3日(金)を紹介。
なんで敬礼はあのポーズなあの?

なんで敬礼はあのポーズなあの?
チコちゃん「ねぇねぇ岡村、この中で一番、礼儀正しいステキな大人ってだーれ?」
チコちゃん「なんで敬礼はあのポーズなあの?」
チコちゃんの答えは、「帽子を脱ぐフリ さらに汚い手を見せたくなかったから。」
帽子を脱ぐフリ さらに汚い手を見せたくなかったから
キリッと決まる「敬礼」のポーズ! 実は「帽子を脱ぐフリ」と「汚れ隠し」から生まれていた!?
警察官や自衛官、そして映画のヒーローたちがビシッと決める「敬礼」。
右手をこめかみのあたりにスッと添えるあの独特のポーズには、一体どんな意味があるのでしょうか?
「相手への敬意」なのは間違いありませんが、なぜ「あの形」になったのか。
チコちゃんの答えは、意外すぎるほど合理的でした。
それは、「帽子を脱ぐフリ」、そして「汚い手を見せたくなかったから」!
服飾史研究家の辻元よしふみさんの解説をもとに、軍装の歴史に隠されたエピソードをご紹介します。
始まりは17世紀の「紳士のたしなみ」
敬礼のルーツを辿ると、17世紀のイギリスを中心としたヨーロッパに突き当たります。
当時の男性にとって、外出時に帽子をかぶることは当たり前の文化でした。
特に目上の人や女性に対しては、「被っている帽子を脱いで挨拶する」のが紳士としての絶対的なマナーだったのです。
これは現代でも、室内に入るときに帽子を取るマナーとして残っていますよね。
戦場では「脱ぐ」のが面倒になった!?
18世紀の中頃になると、このマナーが軍隊の中でも定着します。
しかし、戦場や訓練の場で、上官に会うたびにいちいち重い帽子を脱ぐのは、兵士たちにとってかなりの手間でした。
そこで生まれたのが、「帽子を脱ぐフリ」をするスタイルです。
帽子を脱ぐ代わりに、ツバに手を添えるだけにする。
そのまま軽くお辞儀をする。
これが現在の敬礼の原型となりました。
次第にお辞儀の動作も省略され、手の動きだけが「敬礼」として独立していったのです。
海軍の悩みは「真っ黒に汚れた手」
ここで面白いのが、海軍(水兵)たちの事情です。
1780年代のイギリス海軍などでは、現在の敬礼とは少し違う「握り拳(こぶし)」による敬礼が行われていました。
なぜ拳を握っていたのか?
それは、「手の平の汚れを上官に見せないため」です!
当時の水兵たちの主な仕事は、船体やロープの防水。
そのために真っ黒い「タール」を塗り込んでいたので、彼らの手はいつも真っ黒に汚れていました。
「敬意は示したいけれど、この汚い手を見せるのは失礼だ……」
そんな配慮から、汚れが目立たないように手を握り込んで挨拶をするようになったのです。
「手の平」と「握り拳」が合体して今の形に
19世紀の初頭になると、これらの文化が混ざり合います。
陸軍などの「手の平を見せる(武器を持っていない証明でもある)」敬礼。
海軍などの「手の平を隠す(汚れを見せない)」敬礼。
これらが統合され、「手の平を少し斜め下に向ける(あるいは隠す)」という現在のスマートな敬礼ポーズが完成したと考えられています。
ちなみに、イギリス陸軍などは今でも手の平を相手にしっかり見せるスタイルですが、海軍は手の平を隠すように下へ向けます。
国や組織によって微妙に形が違うのは、こうした歴史の背景が関係しているのですね。
まとめ
キリッとした敬礼のポーズには、「帽子を脱ぐという伝統」と、「汚れた手を見せないという優しさ」の2つが詰まっていました。
「形」だけを見ると威厳に満ちていますが、その成り立ちは意外にも「手間を省きたい」という本音や「相手への気遣い」からきているのが面白いですよね。
次に敬礼のシーンを見たときは、17世紀の紳士や、タールで手を汚して働いていた水兵たちの姿をちょっと思い出してみてください。
結論
というわけで、
「なんで敬礼はあのポーズなあの?」は、
「帽子を脱ぐフリ さらに汚い手を見せたくなかったから」
でした。
解説してくれたのは
服飾史研究家の辻元よしふみさん。
辻元 よしふみ(つじもと よしふみ、1967年(昭和42年) – )は、日本の服飾評論家、戦史・服飾史・軍装史研究家、翻訳家、ファッション・アドバイザー、ファッション・コラムニスト、詩人、エッセイストである。本名・辻元佳史。
2018年に導入の陸上自衛隊の制服(16式常装)改正にかかわり、山崎幸二・陸上幕僚長より陸上幕僚長感謝状を受けた。2019年から、陸上自衛隊需品学校の部外講師(軍装史学)。東京ベイカレッジ非常勤講師。防衛省職員・自衛官向けの専門紙「朝雲新聞」が「軍装史研究の第一人者」(2014年10月30日付)と評している。NHKなどのテレビ出演も多い。
経歴・人物
岐阜市生まれ。茨城県坂東市立岩井第二小学校、坂東市立岩井中学校、茨城県立下妻第一高等学校を経て早稲田大学卒。読売新聞社に入社。元日本現代詩人会理事。日本文藝家協会、国際服飾学会、服飾文化学会、軍事史学会会員。
1990年、村田正夫が主宰する潮流詩派に参加し詩人として活動開始。1996年以後は戦史・服飾史・軍装史研究家としての著作活動を始めた。近年は翻訳家としての活動も多い。服飾や軍服の歴史について、NHKや民放各局のテレビ番組に出演し解説。服飾史と軍事史に関する知識を駆使し、世界史的視点からの服装の変遷を考究し、ミリタリーウエアが今日の紳士服に与えている影響を独自の視点で説いている。単行本以外に中央公論新社の新書などで共同執筆しているほか、日本経済新聞、朝日新聞、読売新聞、西日本新聞、日刊ゲンダイ、日刊スポーツ紙上に署名記事が見られ、河出書房新社、小学館、丸善、ワールドフォトプレス社、工作舎の刊行物などでも戦史と軍装史にかんする記事を書いている。近年は防衛省など省庁や企業の求めに応じて、服飾史や軍装史の研究に基づいたファッション・デザインの提案や企画の仕事を増やしている。
「スーパーロック詩人」というキャッチフレーズは三一書房の編集者が命名したという。「よしふみ」というひらがな表記は2004年ごろから。それ以前は本名の佳史だった。妻はイラストレーターの辻元玲子。義父(玲子の父)は文教大学元理事長で名誉教授の作曲家・田村徹。
元衆議院議員の辻元清美とは縁戚関係はないが、早大時代に「弟さんですか」とよく聞かれたという。
大学生時代には千葉県内の学習塾でアルバイトをしており、当時の一人称は「吾輩」。同時期にやはり早大に在学していたデーモン小暮閣下に口調が似ている、と生徒から言われたためだという。この塾の講師仲間に、後に靴職人となる柳町弘之がおり、ファッション関係の仕事を始めたときに再会してお互いに驚いた。
(Wikipediaより)
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