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なんで武士はちょんまげなの?→ムレるから

今回は、チコちゃんに叱られる! 生放送 新BSスタートスペシャル 初回放送日: 2023年12月1日の番組内容を紹介。


なんで武士はちょんまげなの?





なんで武士はちょんまげなの?


今回は、生放送 新BSスタートスペシャル!



本日は生放送!


ゲストは松本潤さん、ファーストサマーウイカさん、大竹まことさん。


早速一問目に。


チコちゃん「ねぇねぇ岡村、この中で一番、髪型にこだわるステキな大人ってだーれ?」


この問題は、松本さんが回答者に。


チコちゃん「なんで武士はちょんまげなの?」


この問題は、松本さんはご存じのようで大正解。


チコちゃんの答えは、「ムレるから」



ムレるから


武士が誕生した平安時代。


中国からの影響で冠や烏帽子が流行。





これらがずれて落ちないように髪の毛を支柱のように集めて立てていました。


武士が兜をかぶる時は萎烏帽子(なええぼし)という柔らかい帽子のようなものを一度頭にかぶせます。




その上に兜をかぶるスタイルが一般的。




5~6kgの重さの兜はそれだけでも相当なストレス。


当然ながら、頭はムレムレの状態。


やがて時代と共に兜をかぶる機会が増えました。


ムレ防止のために髪の毛を剃る人たちが増える事に。


室町時代の武士について書かれた記録には「兜をかぶると蒸れて頭に血がのぼるので頭の上を丸く剃った」という記述も。


本来であれば丸坊主に剃り上げる方がもっと楽。


しかし、丸坊主はは僧侶のものとされていました。


そこで武士と僧侶を区別するために髪の毛は残しておいたとのこと。





剃り上げた部分は月代(さかやき)と呼ばれます。


当時の武士では、戦いの大切な準備。


「いつでも戦いに行けます」と主君に示すためのもの。


そして戦国時代になって庶民が戦に参加するようになるとちょんまげの髪型が一般に広まります。


戦がおわった江戸時代にはファッションとして定着。


日本文化の一部に。


ところが明治政府樹立の立役者・岩倉具視により、ちょんまげ文化が終わります。


番組では、「英雄たちの選択」とのコラボでお話がすすみます。


明治4年8月に新政府は断髪令(=髷を落として髪型を自由とする法令)を発令。


古い時代の慣習を取っ払って近代化を進めようと画策。


一方で岩倉具視は「髷は日本人の魂なのでみだりに西洋の真似をするべきではない」とこれに強く反発。


しかし、当時は西洋諸国と不平等条約が結ばれており、日本政府としてはその解消につとめていたところ。


その予備交渉と西洋文明視察のための使節団として派遣された岩倉使節団。


サンフランシスコに到着した際の写真。




ほとんどが洋装の中で岩倉具視だけは和装にまげ姿。


初めて接する西洋文明に圧倒される使節団のメンバーたち。


歓迎ムードで気を良くする使節団。


その一方で、当時のニューヨークタイムズには「日本の全権大使は和装に固執」と岩倉具視を揶揄するような記事を掲載。


また、和装を茶化すような風刺画が作られていたりとあまり評価されず。


また、アメリカに留学中だった岩倉具視の息子たちの助言もありました。


息子「服装などの物珍しさから相手を喜ばせているが、決して尊敬されているわけではなく文明開化を目指す国の使節としてはふさわしくない。」


岩倉具視の姿勢を変えることを勧めます。


岩倉具視は、西洋諸国に対等の関係を築くために断髪。




西洋化を進める西洋化に反発する日本人のプライドを守りながら技術的な文明のみを取り入れる形で西洋化。


そして明治5年1月に滞在中だったシカゴの地で岩倉具視は断髪する決断。


使節団に同行した佐佐木高行の日記には「西洋風にしなくては外国人に軽蔑される」とその理由が記されていました。


この断髪の決断は日本にいる岩倉具視の支持者たちにも衝撃を与えます。


国の為にまげを落とした岩倉具視をほめたたえることに。


そして明治6年3月20日に明治天皇が断髪。


そこで、日本のちょんまげ文化は終焉。


出で立ちを西洋化した日本と、そうしなかった東アジアの国々ではその後の近代化に大きな差がつく事になりました。




結論


というわけで、


「なんで武士はちょんまげなの?」は、


「ムレるから」


でした。




解説してくれたのは


解説は國學院大學の根岸茂夫名誉教授



根岸 茂夫(ねぎし しげお、1951年[1] – )は、日本の歴史学者。専門は日本近世史(政治史・武家社会史・農村史・国家)。博士(歴史学)(國學院大学・2000年)(学位論文「近世武家社会の形成と構造」)。國學院大學名誉教授[2]。

略歴
東京都生まれ[1]。1974年國學院大學文学部史学科卒、1979年同大学院文学研究科日本史学専攻博士課程修了[1]。埼玉県史編纂室学芸員を経て、1988年國學院大學文学部講師、のち助教授、教授。2000年「近世武家社会の形成と構造」で、國學院大学より博士(歴史学)の学位を取得。

2021年、國學院大學より名誉教授の称号を授与される[2]。

著書
『近世武家社会の形成と構造』吉川弘文館、2000
『大名行列を解剖する 江戸の人材派遣』吉川弘文館 歴史文化ライブラリー、2009
共編・監修
『古文書字叢』佐藤孝之、安池尋幸共編 柏書房、1990
『新編・古文書解読字典』佐藤孝之、安池尋幸共編 柏書房、1993
『江戸版本解読大字典』監修 柏書房、2000
『近世の環境と開発』大友一雄、佐藤孝之、末岡照啓共編 思文閣出版、2010
(Wikipediaより)



國學院大學

國學院大學(こくがくいんだいがく、英語: Kokugakuin University)は、東京都渋谷区東四丁目10番28号に本部を置く日本の私立大学。1882年創立、1920年大学設置。大学の略称は略称は國學大(こくがくだい)[注釈 1]、國大(こくだい)[注釈 2]。

概観
大学全体

明治末期の皇典講究所

皇典講究所で使用されていた椅子。國學院大學博物館展示。
國學院大學は1882年(明治15年)に創立された皇典講究所を母体とする大学である[1]。皇典講究所は明治政府の神道政策の一環として、古典研究と神職養成の機関として創立された[2]。1890年(明治23年)に皇典講究所によって國學院が設立されて以来、諸学問を通じて日本の伝統文化を明らかにして、国や地域への貢献、国際社会の発展に寄与するとともに、自己の個性を最大限に発揮することのできる人材を育成することを理念とし、 国史・国文・国法の研究機関、「国学(=日本を学ぶ)」の大学として研究と教育を重ねる[1][3]。1920年(大正9年)に日本の私立大学では同年に大学へと昇格した早稲田大学・慶應義塾大学についで、最も古い段階で大学令に基づく大学となった(詳しくは旧制大学参照)。

大学名の表記

渋谷キャンパス。「國學院大學」と表記されている。
新字体(当用漢字)での「国学院大学」あるいは新字体を含む「國學院大学」表記はマスメディアやスポーツ分野で正字体の使用が認められない場合に使用されることがあるが、國學院大學の責任において発行・発信される全ての発行物・広報物・書類においては正字体表記(「國學院大學」)を基本としている[4]。なお、渋谷キャンパス前の交差点およびバス停名が「国学院大学前」であるほか、渋谷キャンパス、たまプラーザキャンパスともに「国学院大学」の表記も一部用いられている。

建学の精神
國學院大學学則第1条では「本学は神道精神に基づき人格を陶冶し、諸学の理論並びに応用を攻究教授し、有用な人材を育成することを目的とする」と規定され、國學院大學では神道精神を「日本人としての主体性を保持した寛容性と謙虚さ」と定義している[5]。

明治維新の際、急速な欧米化によって日本古来の思想・文物が顧みられない状態となった。一方で、日本が独立を全うし国家が発展するためには、思想、文化、体制は日本の歴史・民族性に基づくものでなければならないという気運が高まり、1882年(明治15年)國學院大學の母体となる皇典講究所が明治政府によって設立された。
(Wikipediaより)




今回も最後まで読んでくれてありがとう。
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