今回は、2021年11月26日金 チコちゃんに叱られる!「▽たまねぎの謎▽宇宙ステーションの秘密▽フレー」の番組内容を紹介。
応援団が言っているフレーフレーってなに?
たしかに応援団は、フレーフレーですね。
いったいなぜ?
応援団が言っているフレーフレーってなに?
本日の最後の話題。
チコちゃん「ねぇねぇ岡村、この中で一番、周りを勇気づけてくれるステキな大人ってだーれ?」
ここは、今日は先発していない岡村さんが立候補してが回答者に。
視聴者のおたよりからの疑問
チコちゃん「応援団が言っているフレーフレーってなに?」
岡村さん「応援旗を振るためのフレーという意味。」といった趣旨の回答。
チコちゃん「ボーっと生きてんじゃねーよ!」
舘さんにもきいてみると、
舘さん「英語のヒップヒップフレー (Hip Hip Hooray)が語源」
チコちゃん「なんで、それをなぜ応援団が使うの?」
その後、答えられず終わってしまいました。
チコちゃんの答えは、「早稲田大学野球部が輸入した掛け声」
舘さんは、ちょっと納得いかない様子で、VTRへ。
早稲田大学野球部が輸入した掛け声
解説してくれたのは、早稲田大学野球部部長で政治経済学術院の川口浩教授。
NHコ教養講座「応援団が言っているフレーフレーってなに?」
明治時代の1901年に早稲田大学野球部創部時の初代部長を務めたのが安部磯雄さん。
その頃は慶應義塾大学、学習院大学、旧制第一高等学校(現在の東京大学教養学部など)などが強豪校として有名。
創部間もない早稲田大学野球部はまだまだ弱小チーム。
そこで安部磯雄はもし強豪3校に勝つ事があれば、その際にはアメリカに連れていくという約束を宣言。
これに奮起したメンバーは1904年に強豪3校を相手に全勝するという結果に。
1905年には約束通りに野球部はアメリカへ行く事になりました。
アメリカへの渡航費用
社会情勢
という2つの問題が立ちはだかる事に。
まず第一に、部員12人と安部部長の渡航費用は当時5500円(現在の価値で約2000万円)。
これを大学から借金するという形で何とか解決。
第二に、社会情勢。
1905年というのは日露戦争の真っ只中。
野球の為に渡米するというのはいかがなものか?と二の足を踏む事に。
そこで登場するのが大隈重信。
安部部長は直談判して大隈重信からOKをもらい無事解決。
これで晴れて1905年4月に早稲田大学野球部はアメリカに旅立つことになります。
このアメリカ遠征ではアメリカで使われていた最新式のグラブや
スパイクなどの最先端野球道具だったり。
バントやワインドアップ投法などの最新の戦術や技術も日本に持ち帰るという大収穫も。
特にピッチャーの起用法として1人で完投するのが当たり前とされていた当時の日本野球界。
常識に反して、アメリカでは継投策が常識。
これには大変なカルチャーショックだったとか。
つまりこの遠征は日本野球界全体にとって大きな転換点になった出来事といえます。
肝心のフレーフレーについては、この遠征で目にしたカレッジエールがその起源。
それまで日本の応援は観客が思い思いに拍手したり、怒鳴ったり、ヤジを飛ばしたりとバラバラ。
ところがカレッジエールでは学生たちが大学名の書かれた小旗を持って、リーダーの音頭に合わせてエールを送るというもの。
その整然とした応援にまたしてもカルチャーショック。
こういった組織的に応援するという応援方法を日本に持ち帰る事に。
英語でhooray、hurrayという言葉は嬉しい時に叫ぶ言葉でバンザイのような意味。
現在のカレッジエールはチアリーディングの発展と共に、hurrayはかなり古い形の応援。
現在は、あまり目にする機会はありません。
1900年頃ではhurrayが用いられていたとのこと。
そしてアメリカから帰って来た1905年11月の早慶戦。
第3戦についにフレーが初お目見え。
試合前に激励に来た学生たちに安部部長がカレッジエールについて教授したとのこと。
その応援効果もあってか早稲田大学野球部はその試合で勝利をおさめるという結果に。
ちなみにその翌年の1906年の早慶戦第1戦では慶応義塾大学が応援歌を披露。
新たな応援スタイルを開発。
これに対抗する形で早慶戦第2戦において早稲田大学も応援歌を作って応援合戦に発展。
このように順調に盛り上がっていたように見えた両校。
熱くなった学生たちの行き過ぎた行動がいよいよ目立つようになって早慶戦は途絶えることに。
そこから19年後。1925年に早慶戦は復活する事になります。
その最初の挨拶で、安部部長は「応援する者は相手をリスペクトすべき」という精神を強調されていたとのこと。
結論
というわけで、
「応援団が言っているフレーフレーってなに?」は、
「早稲田大学野球部が輸入した掛け声」
でした。
補足
フレーフレーの応援を始めた早稲田大学は60年後の1965年に掛け声の他にコンバットマーチも作成。
選手を盛り上げる応援歌として今でも使われている有名曲。
解説してくれたのは
早稲田大学政治経済学術院の川口浩教授。
川口 浩(かわぐち ひろし、1951年10月 – )は、日本の経済学者。専門は日本経済思想史。社会経済史学会常任理事。[1]
略歴
1970年 – 早稲田大学高等学院卒業
1974年 – 早稲田大学政治経済学部卒業
1985年 – 早稲田大学大学院経済学研究科博士課程単位取得満期退学
1986年 – 中京大学商学部専任講師
1986年 – 中京大学経済学部専任講師
1991年 – 中京大学経済学部助教授
1994年 – 早稲田大学政治経済学部助教授
1996年 – 早稲田大学教授
2020年 – 早稲田中学校・高等学校校長に就任
現在、早稲田大学政治経済学術院教授(2004年~)、 他に早稲田大学野球部部長(2004年~)、 早稲田大学生活協同組合理事長(2014年~)を務める。
(大学HPより)
早稲田大学(わせだだいがく、英語: Waseda University)は、東京都新宿区戸塚町一丁目104番地(新宿区西早稲田一丁目6番1号)に本部を置く日本の私立大学である。1920年に設置された。大学の略称は早大(そうだい)。
大学全体
大隈重信立像(朝倉文夫作)。登台した学生は退学の内規あり。
大隈重信が明治十四年の政変による下野後に設立した東京専門学校を前身とする四年制の大学である[1]。1920年(大正9年)に日本の私立大学では慶應義塾大学などと共に最も古い段階で大学令に基づく大学となった(詳しくは旧制大学参照)。2019年時点で、10の学術院のもと13学部・25研究科(大学院)を設置している[2]。国際交流が盛んで、特にアジアからの外国人留学生が多い。
大隈重信が明治の代表的な政治家の一人であり、イギリス流の政治経済学を中心とする大学をモデルに設計されていることから政治経済学部を看板学部とし、政治経済学部を中心に政界・財界に多くの人材を輩出しているのをはじめとして、出版、新聞、文学などの分野でも多くの卒業生が活躍している。英国の教育専門誌『タイムズ・ハイアー・エデュケーション』による2017年の日本版ランキングでは、私大1位に認定された[3]。
早稲田大学は、東京専門学校時代から、文部省「特別認可学校規則」や専門学校令の特例適用、大学令による私立大学として最初期の認可などを受けてきた。政治学、法律学、文学、商学、理工学、教育学、芸術、スポーツなど様々な分野で、近代日本国家の教育・研究分野の形成をリードしてきた学校であり、上述の慶大と共に「私学の雄」と並び称され、私立大学の最高峰に位置付けられることが多い[4]。
同窓会は稲門会(とうもんかい)と称され、 早稲田大学校友会に登録している「登録稲門会」に限っても1300を超える団体が存在し、国内有数の学閥となっている。
建学の精神
1913年(大正2年)当時の総長大隈重信は、前身となる東京専門学校の創立30周年記念祝典において、早稲田大学教旨を宣言した。
「学問の独立」「学問の活用」「模範国民の造就」を基本理念としている。
(Wikipediaより)
今回も最後まで読んでくれてありがとう。
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