今回は、2018年9月14日金曜日放送、「チコちゃんに叱られる!」のお話。
「カスタネットはなぜ赤と青?」だよ!
なつかしい、カスタネット。
小学校の時に使ったね。
でも、なぜ、青と赤何だろう?
カスタネットはなぜ赤と青?
カスタネットはなぜ赤と青?
チコちゃんからのおたづねは、「リズム感がいい素敵な大人ってだーれ?」
番組では、ダンスが得意な岡村さんですが、あえてミュージカルをやっているムロさんに。
その後、番組では、NHKで放送の「LIFE!~人生に捧げるコント~」の中の、ムローノ・マーズ。
チコちゃんのリクエストで、ムロツヨシさんが踊ってました。
さて、今回のチコちゃんの質問は、カスタネット。
チコちゃん空の質問は、「どうしてカスタネットは赤と青なの?」
ムロ「カスタネットのパート分けのために赤の人、青の人と区別するため?」
正解でなく、叱られちゃいました。
チコちゃんの答えは、
「業者さんが面倒だったから」
業者さんがめんどうだったから???
業者の人が面倒臭かったから
解説は日本初の赤青カスタネット製造会社の2代目 冨澤健一さん。
赤青カスタネットの元祖は冨澤健一さんの父、冨澤捷(すぐる)さん。
もともとカスタネットはスペインの舞踊であるフラメンコで古くから使われている伝統的な楽器。
指を細かす動かして鳴らす楽器。
そこで、子どもでも簡単に使えるように日本で作られたのが「ミハルス」という楽器。
ミハルスの名前の由来は、日本人舞踏家の千葉みはるさんが考案したことから。
赤と青のカスタネットはこのミハルスを改良して作られたものなんだって。
なぜ、カスタネットが生まれた?
昭和20年頃に冨澤捷さんの元に大学で音楽を教えていた先生から、小学生向けのリズムをとる楽器を作りたいという依頼があったんだって。
そこで、ミハルスを改良したんだ。
そこでは、赤と青の2種類が製作されたんだね。
青は男の子用、赤は女の子用。
両面とも指で鳴らすミハルスと違い、手のひらに乗せて叩くという演奏方法。
これで小学生でも簡単に演奏できるようになったんだね。
なぜ、赤青のカスタネットになった?
男女で色を分けた事がその後の運命を左右しちゃう。
いつもの「NHK たぶんこうだったんじゃないか劇場」
「半分、青い。~でも半分、赤い。~」
時は昭和20年代。
日本が第一次ベビーブームを迎えていた頃、15歳未満の子どもの人口は現在の倍。
昭和25年 約2943万人。平成30年 約1553万人。
その為、工場にもカスタネットの発注が沢山あったんだ。
つぶやきシローさんが従業員、社長役は、鶴見辰吾さんが演じてました。
赤いカスタネットと青いカスタネットの発注。
それぞれ発注数がバラバラで非常にややこしい状況に。
社長「かぁ~~! めんどくさい!」
従業員「社長、マジで言ってんのかな・・・」
社長「マジだ”」
赤と青で別々に在庫管理をしなくてはいけないのは面倒だからと頭を抱える社長。
社長「そうだ、混ぜてしまおう。」
そして考案されたのが片面が赤、もう片面が青のカスタネット。
こうして誕生した赤青カスタネットは学校教材として採用されて全国に広まったんだね。
結論
というわけで、
「カスタネットはなぜ赤と青?」は、
「業者の人が面倒臭かったから」
でした。
塚原アナから補足
冨澤捷さんは「赤が下、青が上にして装着する」という演奏のルールも決めたそうですが、どちらを上にしても音に大きな違いはないとのこと。
解説してくれたのは
日本初の赤青カスタネット製造会社2代目の冨澤健一さん。
7つの質問 – カスタネット職人 冨澤健一
小学校の時、あなたのお道具箱の中に絶対入っていたもの。赤と青のあのアイテム、覚えていますか?そうカスタネット。実は日本で使われるカスタネットのほとんどを製造していたのが、群馬県みなかみ町の職人の冨澤健一さんでした。一度は止まってしまった工場が再び動き出したいま、冨澤さんに7つの質問。
Q1.なぜカスタネットを作り始めたのですか?
親父がカスタネットを作り始めたんだよね。当時、東京にある大学で音楽を教えている先生が、こっちの方(みなかみ)に友達がいて、訪ねてきたみたい。カスタネットという楽器は、元々スペインから来たもので、当時日本にはなかった。その先生が、小学生向けにリズムをとる楽器を作りたいということで、うちで作れないか依頼してきたのが始まり。当時の広告は新聞広告。昭和25年当時の新聞広告を僕も見せてもらったんだけど、大阪の園田短期大学(現在は兵庫県尼崎市)の助教授をしている人が、カスタネットで論文を書くというので、うちの新聞広告を持っていたんだ。そんな昔のこと、僕にもわからないんだけど。会社で新聞広告を出すということはそれなりに「全国に広めたかった」ってことだよね。先代のことだから憶測でしかわからないけれど。最初の新聞広告が昭和25年という事を考えると、依頼を受けて、見本をもとに試作品を作って、簡単に完成というわけにはいかないから、昭和22、23年くらいに最初の製作が始まったんじゃないかと思うんだ。私がまだ2歳か3歳くらいの頃か。
Q2.その後、カスタネットの生産数はどのように変化したのですか?
それが注文は増えてはいかなかった。カスタネットは1年のうちに何ヶ月か作るくらい。あとは、畑仕事とこけしを作って売っていた。秋はキノコを採りもしてたよ。だから、私が小学校卒業する頃までは、親父とお袋の弟の二人でカスタネットを作っていた。私も木を丸くくり抜くくらいは出来たので手伝っていたよ。その後、中学校に入ってから、隣の製材工場で製造を始め、社員が8人くらいに増えたんだ。その頃にこのカスタネットが文部省で使うようになったとのだと思う。そこから作る量は年々上がっていった。最初から全国の学校で使われたわけではなく、みなかみ町の学校で使うようになったのが始まりかな。一番多い頃だと220万〜230万個を、4社で作っていた。うちでも月に6万個ぐらいしか出来なかったから
Q3.カスタネットの色には裏話があると聞きました。
もともとは染料だったけと塗料に変わった。塗料は口に入っても大丈夫なうち専用の塗料を使っていた。要するに上の子が1年生とか幼稚園にいれば、その下に弟妹もいるわけだから、その子らがおもちゃと同じように、かじって口に入っても大丈夫なものを使っていた。うちだけの塗料を作ってもらって、カスタネット作りを辞めるまで同じ塗料を使っていたよ。カスタネットの色については、最初は赤が女の子用、青が男の子用だった。でも、同時に同じ数の女の子と男の子が入学するわけではないから、学校に卸ろす業者の在庫の問題で、片面を赤、もう片面を青というカスタネットを作ったんだ。
Q.4 楽器屋さんでもないのに手探りで始めて成長したカスタネット作り。
5年前に工場を閉鎖したその訳は?工場を閉めなきゃいけない状況じゃなければ、やっていたかもしれないね。木が手に入らなくて、どうにもならなかったからやめようということを、取引先にすぐ連絡した。こういう状況で作り続けられないから。次の年の分は、残ったゴム紐の数だけ用意するからということで、2、3万個を納めて、翌年の分はしのいだ。最後辞める時には学校の備品のほとんどというくらい増えて、受注数も少なくなっていたしね。私がカスタネット作りをやめて、今日本の学校はカスタネットを中国から輸入している。でも使われる塗料がウレタン。ウレタンは口に入ったら毒だけど、そんなことは気にしない時代なんだろうか。うちのカスタネットを東京の教育出版社に持っていったことがあるけど、やっぱり値段が高いから割に合わないらしい。品物はいいけど価格が見合わない。物価が前とは変わっているよね。大量生産が出来ないとどうしても単価が上がってしまう。カスタネットは、ひとつひとつ磨かないとカスタネットにならない。全部手で磨くから、私は右の手の爪が伸びない。常に深爪のようになって、丸く切っても平らになてっしまう。最近はあまり作ってないけど、数を作っていた時はそうなっていたよ。
Q.5 サクラ、クリ、ブナ、ミズキ、ケンポナシ、エンジュがカスタネットに使われると聞きましたが、木によって違いがありますか?
木によって音が全然違う。ヤマザクラの音が良いんだ。歌舞伎だって「拍子木」で床をはたくよね。あれはサクラでなく、ヤマザクラじゃないとだめ。火の用心の拍子木もヤマザクラ。一番響きがいいんだよ。音の高さが3000ヘルツくらいがいい。歌手でいうと森山良子の声がだいたい3000ヘルツ。耳障りのいい声。なので幼稚園で使うようなものはヤマザクラがおすすめ。焼き判(焼印)でサクラと、木の名前がカスタネットに入っている。そうすると子どもでも覚えやすい。無理にヤマザクラと言わなくても、ソメイヨシノやサクラなどすぐに見られるから。ちなみにソメイヨシノとヤマザクラは木の硬さがちがうから、厳密には違う音なんだけどね。
Q.6 赤谷プロジェクトのキーパーソン、出島さんとはどんな風に出会ったのですか?
出島さんは、地元の「猿ヶ京温泉祭り」でカスタネットが配られたときに、初めてうちのことを知ったみたい。湯宿温泉の岡田さんと一緒に訪ねて来たのが最初で、 その時はまだカスタネットをちゃんと作っていた時だった。 いつか赤谷の森の木でカスタネットをつくりたいという話だったけど、その頃からいよいよ木が手に入らなくなって、工場を閉めることにした。そしたら、出島さんから、木を探すからカスタネット作りを再開してもらえないかという話になって、結局一緒に木を探して、見つけたブナで1000個つくった。それから、いろんな人がうちに来るようになった。年金をもらっていたから生活をするのは大丈夫だから、やるぞと決めたんだけれども、今まで作っていたのに比べて1週間やればいいやと思っていた。今使ってる木は細いから今までと全然違う。削りにくくて手間がかかる。簡単に1000個ぐらいなら1週間かからないでできるからと思っていたけど、1000個作るのに、20日は十分にかかる。今までは毎日9000枚削れていた。もう一人、女の人がいて2万3000個数できていた。今は1000個つくるのが大変。1ヶ月かかるよ。
Q.7 木に触れる仕事をしてきて得たものとは?
木や自然の奥深さを知れたことかな。今までカスタネットを作ってきて、こんなはずじゃなかったということばっかり起きている。一筋縄ではいかない、それがやっぱり自然かなと思うし、同じように生えてきた同じ木の種類でもこんなに違うんだ、と今でも驚かされる。ここ、みなかみ町にいたらやっぱり自然が一番いいかな。私も東京の病院に2ヶ月入院したことがあるけど、やっぱり山場が見えないのはつまらないね。大自然があるからいいんじゃないかね。自分のカスタネットでたくさんの人が喜ぶ。出島さんと最初につくったカスタネットを地元の小学校の新入生にプレゼントしたら凄く喜ばれて、それから毎年恒例になって、今はみなかみ町全校に広がった森に視察に来る林野庁の人も独立行政法人国際協力機構(JICA)の人も喜んで鳴らすんだ。幼稚園でも木を削らせてあげるんだよ。そうすると子どもたちは喜ぶし、大人でも今の仕事ってなかなか触れることがないかなって思う。だからやりたいという人にはやらせてあげる。そうするとどの人も喜ぶね。
(7つの質問 – カスタネット職人 冨澤健一より)
みんなが叩いたカスタネットの故郷が群馬県みなかみの森にありますゴムに指を通して手のひらにのせ、リズムに合わせてタン、タタン……。小学校で子どもたちがリズムを学ぶために使う、赤と青のカスタネット。
あの懐かしいカスタネットは、みなかみから全国へ届けられていたことを知っていますか?みなかみの町に、古くから続く小さな工房があります。その名も「カスタネット工房」。
冨澤健一さんという男性が、毎日ここで手作業でカスタネットをひとつずつ作っています。
あの懐かしい赤と青のカスタネットもこの工房で作られていて、当時は、年間に200万個を作るほど大忙しだったそうです。
実はその私たちにとって懐かしいカスタネットは、冨澤さんの父親がスペインの楽器を元に、子どもたちが扱いやすい打楽器として、この工房で開発されたものでした。
森と一緒に生まれ変わったカスタネット日本のカスタネット製造を一手に手がけていた〈カスタネット工房〉(旧プラス白桜社)でしたが、木材が手に入らなくなるなどの理由から2013年にカスタネットづくりを中断していました。
ちょうどその頃、みなかみの豊かな自然を未来に引き継ぐために、昔ながらの日本の森を再生する「赤谷プロジェクト」という活動が進んでいました。
スギ、ヒノキなど植林から、ブナやミズナラなどを中心として原生林へ。
その過程で生まれる間伐材を活用するために、カスタネットづくりが再び行われるようになりました。
工房では今、冨澤さんが当時自作したカスタネット製造用の工具や機械がふたたび稼働することになり、新たなカスタネットを生み続けています。
タン、タ、タン!この音は森へのチケットです。
森とともに復活した冨澤さんのカスタネットは、色を塗らず、木肌を生かした仕上げとしています。
木の種類もさまざまに用意されていて、サクラ、ブナ、ミズキ、クリなど、それぞれに木の固さや音が異なります。
タンタンと鳴らして、その音を生んだ森を想像してみてください。そうしていつか、森をあなたが訪れる。そんな素敵なことが起こることを楽しみにしています。
(森のカスタネットスペシャル工房HPより)
今回も最後まで読んでくれてありがとう。
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