今回は、2022年8月19日金 チコちゃんに叱られる! 拡大版SP▽海水浴の謎▽自由研究▽なぜファンになる 初回放送日: 2022年8月19日の番組内容を紹介。
自由研究ってなに?
自由研究ってなに?
本日の2つめ目の話題。
チコちゃん「ねぇねぇ岡村、この中で宿題を絶対忘れないステキな大人ってだーれ?」
岡村さんのご指名で、本人はダメダメだったという小池さんが回答者に。
夏休みの宿題から、自由研究の話題に。
チコちゃん「自由研究ってなに?」
小池さん「夏休みの過ごし方を自由研究を通して考える。」といった趣旨の回答。
正解に至らずられちゃいました。
チコちゃんの答えは、「自由研究は4年消えた幻の教科。」
自由研究は4年消えた幻の教科
解説してくれたのは、一橋大学大学院の木村元特任教授。
日本の学校ではどこでも同じ教育が受けられるように学習指導要領という基準が設けられています。
指導要領では、横軸に学年、縦軸に教科、そして時間数が記載。
1947年に出された学習指導要領を見てみると「自由研究」の教科が存在。
4年生から教科として組み込まれ、毎週2時間から4時間の時間が当てられていました。
自由研究とは戦後の経験主義教育(=実際にやってみて学ぶ教育)に基づいて作られた教科。
1951年の算数の強化者を見ると
算数の計算をさせる前に、お店ごっこをしましょうとあります。
1. おみせのしなものをつくる。
ねんどえつくる。
クレヨンでかく。
かみをきりぬく。
2.かんばんをつくる。
3.おかねをつくる。
4.ねだんひょうをつくる。
そして、
お札をつくったり、コインをつくらせたり、
それから、実際の買い物時の計算をさせていました。
このように、4ページにもわたってお店ごっこのやり方を説明するなど経験主義教育(=実際にやってみて学ぶ教育)にのっとった教育でした。
自由研究は、他の授業中に興味を持ったことを子どもたちの個性や興味関心に合わせて自由に勉強させるという取り組み。
現在81歳以上の方は自由研究を教科として学校で学んでいました。
1947年に始まった自由研究は4年後の1951年の学習指導要領では削除されることに。
生徒個人個人に合わせて自由研究を指導するのは難しい。
また、全員が同じ研究内容にしてしまうと個人的な興味関心などを無視してしまうことになります。
なかなか教科として成立しにくかったとのこと。
その頃は高度経済成長期時代。
社会に出るために多くの知識が求められる時代でした。
そのため、経験主義教育から系統主義教育(=知識を順を追って学ぶ教育)への転換。
このように自由研究は、指導要領から消えました。
授業で指導するのは難しくても、個人の興味に従って色々な経験を積む事は必要と自由研究を支持する先生方は多く、指導側の支持が厚かったとのこと。
夏休みのであればまとまった時間もあるので自由研究をさせるには適しているということに。
このように4年で消えた幻の強化である「自由研究」は、先生たちの思いによって、夏休みの宿題として残っているとのこと。
最後に面白い自由研究を2つ紹介。
一つ目は、ママを救う献立スロットマシーン
主催、副菜A、副菜Bの組み合わせがランダムに出てきて、献立が決まるマシーン。
二つ目が、宿題を最後の日まで残しておいた時の家族と自分の反応
赤裸々に自分の焦りの気持ち、周りの反応が面白い自由研究となっていました。
結論
というわけで、
「自由研究ってなに?」は、
「自由研究は4年消えた幻の教科」
でした。
解説してくれたのは
一橋大学の木村元特任教授
所属・職名 社会学研究科 特任教授
社会学研究科 名誉教授
氏名 木村 元(キムラ ハジメ)
研究キーワード : 教育史、教育学
研究分野 : 人文・社会 / 教育学
経歴
1990年4月 ~ 1993年3月 四国女子大学 - 講師
1993年4月 ~ 1994年3月 四国大学 - 助教授
1994年4月 ~ 2000年3月 一橋大学 社会学部 助教授
2000年4月 ~ 2021年3月 一橋大学 社会学研究科 教授
2010年12月 ~ 2012年11月 一橋大学 役員補佐
2021年4月 ~ 現在 一橋大学 社会学研究科 名誉教授
2021年4月 ~ 現在 一橋大学 社会学研究科 特任教授
所属学協会
No. 所属学協会
1. 日本教育学会
2. 教育史学会
3. 教育目標・評価学会
4. 日本教育社会学会
(大学HPより)
一橋大学(ひとつばしだいがく、英語: Hitotsubashi University)は、東京都国立市中2丁目1番地に本部を置く日本の国立大学である。1920年に設置された。指定国立大学法人に指定されている。
概説
大学全体
国立キャンパス本館
一橋大学は森有礼が福澤諭吉と[1]渋沢栄一の援助を得て[2]、1875年(明治8年)に開いた商法講習所を源流とする日本で最も古い社会科学系の大学である。第二次世界大戦前には商学専門の官立大学(旧制東京商科大学)として開設されていた。森有礼は、幕末期にロンドン大学に学び、のち初代米国代理公使としてワシントンに滞在した。英米両国では実業家が官僚や政治家に劣らず活動していること、国家独立の基礎は経済の富強にあって、そのためには経済人の育成が急務だと痛感したこと、それらが一橋大学の学校設立の端緒となっている。
建学の精神(校訓、理念、学是)
沿革から、産業界の指導者を育成するという建学理念を持つ。19世紀イギリスの論客トーマス・カーライルの著作『過去と現在』(“Past and present”) から採られた言葉「キャプテンズ・オブ・インダストリー (Captains of Industry)」[3] という言葉は一橋大学における事実上の校是となっている。
教育および研究
少人数教育
一橋大学では少人数教育を重視している[4]。
全学部の入学定員の合計は1学年950人強[5]。1875年開設以来の卒業生の数は7万人程度と比較的少ない[6]。
現在でも、あまり規模が大きくない大学であるが、1980年以前頃までは、さらに少ない学生数であった。戦前の学生数は大学本科1学年280名前後、大学予科1学年200名前後、付属専門部1学年200名前後、商業教員養成所1学年35名前後であり、大学本科全体で合わせて700人から1,000人程度、学園全体で2,400人程度であった[7][8]。
戦後は付属大学予科や付属専門部を吸収して拡張し、1学年440名(1959年)から490名(1963年)程度に増加した[9][10]。他の国立大学文系学部と同様に団塊世代が大学に進学する1965年以降大幅に定員が増え、現在では学部生1学年約950人程度となっている[11]。
ゼミナール
少人数教育における特色としては、特に必修のゼミナール制度が挙げられる。このゼミナール制度はベビーブームの時代にも教員一人に対して10人前後の学生という形態を変更しなかった。現在も10人前後でのゼミが行われている。
またこのゼミナールでは、学問だけでなく全人格的指導を行っているのも特徴であるとされる[12]。学生は3, 4学年の2年間を通じて、同じゼミに所属することとなる。課外でのレクリエーション、ゼミ合宿、卒業後の定期的な会合などが行われるゼミも多い。
学部間の壁が薄い
戦前は東京商科大学という単科大学であったこともあって、学部間の壁があまりない。そのため一般の授業については、他学部の科目を原則自由に履修することができる。さらに他学部の専攻を副専攻とすることができる副専攻プログラムや、他学部への転学部制度もある[13]。
ゼミナールについても、副ゼミナール制度などを利用することにより、他学部のゼミを履修することができる。
また学部によって、使用される建物が違うということもなく、使用されるシラバス・時間割も全学部共通のものである。1年次の語学のクラスも全学部の学生により構成され、他学部の学生と交流する機会も多い。
国際色ある教育
戦前から外国人教師を任用するなど国際色ある教育が伝統[14] で、現在500名を超える留学生が在籍しており、文部科学省の大学国際戦略本部強化事業にも採択されている。
大学に在学しながら、海外の大学に留学し、その際授業料・旅費・生活費が全額給付されるという一橋大学海外留学奨学金制度もある。また授業の一環として夏休み等に海外の大学に語学留学する講義も開講されている。
(Wikipediaより)
今回も最後まで読んでくれてありがとう。
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