今回は、チコちゃんに叱られる! 拡大版SP▽駅伝誕生秘話▽初詣の謎▽鼻水の不思議 初回放送日: 2023年1月6日の番組内容を紹介。
なんで紅白幕はおめでたいの?
なんで紅白幕はおめでたいの?
本日の最後の話題。
チコちゃん「スタジオの中を見渡して、おめでたいものはなにかある?」
お正月バージョンなので、しめ縄や紅白幕などが。
チコちゃん「なんで紅白幕はおめでたいの?」
正解に至らず、られちゃいました。
チコちゃんの答えは、「白黒幕がおめでたくなくなったから。」
白黒幕がおめでたくなくなったから
解説してくれたのは、東京大学史料編纂所の本郷和人教授。
白黒幕の正式名称は、鯨幕。
これは、クジラの背と腹、クジラ肉の皮と脂肪が白黒であるという由来もあります。
この白黒幕から紅白幕が生まれました。
鯨幕が生まれたのは江戸時代中期(1800年ごろ、※諸説あり)
この頃、鯨幕は、主として神事に使われていました。
鯨幕には神の世界との境界線という役割がありあす。
神聖な聖域を示すもの。
鎮地祭や、天皇が国家と国民の平和と繁栄を祝う宮中祭祀でも用いられています。
このように、鯨幕は、もともと神様や鉱質にかかわる神聖な場で使われていました。
昔の日本人にとって鯨幕で囲まれたところは、「ここは神聖な場所」と考えられており、はまったく、お悔やみやお弔いの負のイメージはありませんでした。
ところが明治時代には、その意味合いが大きく変わります。
文明開化で西洋文化が日本に入ってきました。
明治4年に、国民に向けて「洋服への変更」が示されることに。
これに伴ない、大きく変わったのが喪服でした。
当時の喪服と言えば素服(白の喪服)が一般的。
これは1000年以上にわたって日本の伝統的な弔いの色でした。
しかし、西洋にならって黒い服を着て亡くなった人を見送る文化が定着
とくに、国をあげて執り行われる葬儀で黒のイメージが強く打ち出されていきます。
明治11年の大久保利通の葬儀では、黒ネクタイ、大礼服、黒手袋を着用とお達しが。
明治30年の英照皇太后の葬儀では、庶民向けの喪服が発表されました。
和服洋服に関わらず、何かしら黒いものを身に着けて弔意を示すとガイドラインが発表。
このように、「黒=喪の色」が次第に世間に浸透しました。
昭和初期になると民間の葬儀会社は徐々に鯨幕をお葬式に合わせて使うように。
これが広まったことで「鯨幕=葬式用の幕」と見なされるようになりました。
もともとの神聖なイメージから「おめでたくないもの」に。
そこでおめでたい場にふさわしい新しい幕という事で紅白幕が作られました。
紅白幕誕生の起源や「なぜ白と赤?」
これについてはいくつかの説があるようです。
1.紅白まんじゅうの色から
紅白まんじゅうがなぜあの2色なのか?
これは、室町時代に結婚式で配られたのが起源の紅白まんじゅう。
紅=赤ちゃん、白=死を意味していて、生まれてから死ぬまで一生添い遂げるという思いが込められているとか。
この紅白饅頭の配色から紅白幕ができたという説
2.紅白同時に咲く梅はおめでたい説
一本の木から赤と白の花が同時に咲く梅があり、清純、華やであることから一層おめでたいという説。
3.歌舞伎の段幕
歌舞伎で使われる横向きの紅白の段幕は、舞台を華やかに印象を受けます。
また、段幕は、明治時代、伝統文化を披露する催しで使用されていました。
この横しま模様を参考に向きを変えた?という説。
それ以外にも、さまざまな説があるとのことでした。
結論
というわけで、
「なんで紅白幕はおめでたいの?」は、
「白黒幕がおめでたくなくなったから」
でした。
解説してくれたのは
東京大学史料編纂所の本郷和人教授。
本郷 和人[1](ほんごう かずと[2]、1960年10月12日[3] – )は、日本の歴史学者。専門は日本中世史[4]。学位は、文学博士(東京大学・論文博士・1996年)(学位論文『中世朝廷訴訟の研究』)[4]。東京大学史料編纂所教授[5]。東京都生まれ[4]。
学歴
1973年 千代田区立麹町小学校卒業
1976年 武蔵中学校卒業
1979年 武蔵高等学校卒業
1983年 東京大学文学部卒業
1988年 東京大学大学院人文科学研究科博士課程単位取得退学[6]
1996年 『中世朝廷訴訟の研究』で東京大学より博士(文学)の学位を取得
職歴
1988年 東京大学史料編纂所助手[6]『大日本史料』第5編の編纂にあたる。
東京大学史料編纂所助教授
2005年 東京大学大学院情報学環助教授[6]
2007年 東京大学大学院情報学環准教授
2008年 東京大学史料編纂所准教授[6]
2012年 東京大学史料編纂所教授
(Wikipediaより)
東京大学史料編纂所(とうきょうだいがくしりょうへんさんじょ、英称:Historiographical Institute, the University of Tokyo)は、東京大学の附置研究所で、国内外の史料の調査、収集・複写、分析、編纂、公開を行い、歴史情報学研究を推進することを目的とする研究所である。1793年(寛政5年)、徳川幕府の援助を受けた国学者塙保己一が開設した和学講談所を源流とする。
近年では複写に最新の写真技術やデジタル画像技術が駆使されている。
附属施設として画像史料解析センターと前近代日本史情報国際センターを持つ。
共同利用・共同研究拠点に指定されている(「日本史史料の研究資源化に関する研究拠点」[1])。
概要
国内外の史料の収集、複写、読解、情報化、管理、出版、公開を引き受けている。
日本全国・世界各地に史料調査に出かけ、年間50件程度、採訪が行われる。注目すべき史料の収集が行われる。収集は複写が主である。史料採訪によって収集された複製史料は、史料編纂所の閲覧室で日本史研究の素材として多くの市民・研究者に利用されている。近年はデジタル画像として所内・閲覧室で検索・閲覧することも可能である (Hi-CAT Plus)。また、原本所蔵者の許可を得て、可能な部分はウェブ公開に供している。
(Wikipediaより)
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