今回は、チコちゃんに叱られる! ▽干物の不思議▽野球帽の謎▽なぜ身近な人? 初回放送日: 2023年6月30日の番組内容を紹介。
なんで野球は全員帽子を被っているの?
なんで野球は全員帽子を被っているの?
本日の2つめ目の話題。
チコちゃん「ねぇねぇ岡村、この中で一番、スポーツに詳しいステキな大人ってだーれ?」
この問題は、野村さんが回答者に。
チコちゃん「野球選手って試合中、帽子をかぶっているわよね。なんで野球は全員帽子を被っているの?」
野村さん「野球は静と動のスポーツ。サッカーとかは走っている。」といった趣旨の回答。
正解に至らず、叱られちゃいました。
栗山監督にも聞いてみると。
3つ答えますが、こちらも正解に至らず。
チコちゃんの答えは、「全員同時に帽子を脱いでいるチームがまだないから」
全員同時に帽子を脱いでいるチームがまだないから
野球の試合中に野球帽を必ず被らなくてはいけないというルールは存在していません。
アメリカメジャーリーグのルールを参考にして作られている日本のルールブック・公認野球規則。
同じチームのユニフォームは同じデザイン、色、形でなければならず、背番号も一定の大きさサイズ以上のものが必須。
打撃、走塁時にはヘルメット着用も規定。
しかし、帽子に関する記述は見当たりません。
帽子=ユニフォームの一部と解釈すると「帽子を被るなら全員が被る必要があり、帽子を脱ぐなら全員が帽子を脱ぐ必要がある」
全員帽子なしでも問題なし。
野球帽誕生の歴史は1840年代のアメリカ。
第1号の野球チーム「ニューヨーク・ニッカボッカーズ」
彼らが試合中に被っていたのは麦わら帽子。
青パンツ、白シャツ、ネクタイ着用、カンカン帽型の麦わら帽子というスタイルで統一。
当時は外出時に帽子を被るのはエチケットとして当たり前の時代。
野球でも当然そうすべきで、このスタイルになりました。
その後、野球帽はキャスケット型、ピルボックス型、ブルックリン型に変化。
そしてベーブルースらが活躍した1915年頃になるとほとんどの球団が現在の野球帽の形に。
実際に草野球で帽子なしで野球をやってみたところ、外野フライがまぶしい、髪の毛がちらちら入って集中できないなど、
野球帽をかぶることは、機能・メンタル両面でメリット大。
ユニフォームをチームで統一しなければならないというルールが生まれた背景
1882年ごろに「守備位置によってデザインの違うユニフォームを着用する」というルールが規定。
対戦する両チームがこのルールに従わなければなりません。
ストッキングの色でチームを見分けるというルール。
背番号が無かった時代にポジションとユニフォームでどの選手なのか見分けやすくする工夫。
しかし、手間もお金もかかる上に選手にも混乱が広がりました。
そのため、1シーズンと持たずにこのルールは廃止。
その後、ユニフォームはチームで統一すべしというルールが生まれました。
結論
というわけで、
「なんで野球は全員帽子を被っているの?」は、
「全員同時に帽子を脱いでいるチームがまだないから」
でした。
解説してくれたのは
野球のユニフォームなどを研究している専門家の網島理友さん。
綱島 理友(つなしま りとも、1954年8月15日 – )は、日本のプロ野球史研究家、プロ野球意匠学研究家、野球コラムニスト、編集者、エッセイスト。有限会社綱島理友事務所所属。日本プロ野球の歴史研究、特にユニフォームなどの意匠研究の第一人者として知られ、著書の出版のほか、複数のプロ野球チームに研究成果を提供している。
ペンネーム
本名は武藤誠一郎。ペンネームの苗字の「綱島」は住んでいた横浜市港北区の地名「綱島」に由来、名前の「理友」はイタリア・フィアット社の小型車、リトモに由来する[1]。なお活動初期には「理友」を「よしとも」と読ませていた[2]。
経歴
神奈川県横浜市中区 (横浜市)に生まれ[3]。東京都立桜町高等学校、日本大学藝術学部美術学科(デザインコース)卒業。
大学卒業後は、出版社である勁文社に勤務した。その後は平凡出版(現在のマガジンハウス)において雑誌、『POPEYE』や、『BRUTUS』等の創刊から編集に参加。1980年代に『POPEYE』編集部在籍中の特集原稿で綱島理友のペンネームを用い始め、やがて外部からの原稿依頼も来るようになった[1]。フリーランスとしての執筆活動を開始した。2004年2月に個人会社として「有限会社綱島理友事務所」を設立。自身の活動の窓口としている。2000年代以降は、主に「プロ野球意匠学研究家」として、プロ野球関係の執筆や講演等を行っている(「野球関連」節参照)。
野球関連
1963年、9歳の時に大洋ホエールズ子供会に入会して以来の横浜DeNAベイスターズファンである[3]。綱島が子供会に入会した当時の大洋は名将と呼ばれた三原脩が監督を務めていたものの、大洋監督に就任した1960年以降の成績は日本一→6位→2位→5位→2位と、まさに乱高下を繰り返していた。1962年・1964年は優勝に手が届く位置につけながらも、土壇場で阪神タイガースに逆転を許している。当時の阪神のビジターユニフォームは背番号が明朝体。川崎球場に通い詰めた綱島は明朝体の数字を見ると強い阪神というイメージが浮かぶという。また、近藤和彦を憧れの選手として挙げている。
プロ野球のユニフォーム研究の第一人者であり、1999年に週刊ベースボールで「ユニフォーム物語」(以下、ユニ物)をスタートして以来、同誌での連載は2009年で10周年を迎えている(ユニ物は4月19日号に開始し、2004年春ごろまで連載。2005年3月には先述の連載などをまとめた書籍「プロ野球ユニフォーム物語」が発行され、2000年代後半以降の日本プロ野球界における復刻ユニフォーム・ブームのきっかけとなった)。
ユニ物終了後、2004年から2006年3月まで「野球古本史」、2006年4月から5月に先述の書籍出版後に登場したユニフォームを補足する「続プロ野球ユニフォーム物語」を短期連載(先述の書籍発行直前にも、締め切り以降に登場したユニフォームを単発で紹介した)、2006年6月から2011年3月までユニ物のコンセプトを受け継ぐ「ベースボール意匠学」を連載。
2011年3月から「新・ユニフォーム物語(イラスト・イワヰマサタカ)」の連載が開始された。
山本哲士らで設立された野球文化学會の会員でもある。
2001年、ユニ物などで取り上げた題材を掲載するウェブサイト「綱島プロ野球意匠学研究所」を開設(後に意匠以外の題材が増えてきたことから「綱島プロ野球研究所」に改称)。ユニ物の連載の一部のほか、日本プロ野球チームのニックネームの由来についての記事[4]などを掲載している。2003年には、「The Ritomo’s Baseball Club」というファッションブランドを立ち上げ、日本のプロ野球チームの歴代ユニフォームなどのイラストを配した「ベースボール・アロハシャツ」をプロデュース・発売。その後は同趣旨のデザインのTシャツも発売している。
2008年より埼玉西武ライオンズが埼玉移転30周年企画のひとつとして始まった、西鉄ライオンズなど福岡本拠地時代からの歴史を振り返るライオンズ・クラシックというイベントの中で開催された「ライオンズ史研究室」で講師をつとめる(2009年は埼玉移転後のライオンズを取り上げた)。この企画に参加して以来、ライオンズ球団の姿勢に共感。以後の講演などで、すっかり埼玉西武ライオンズのファンになってしまったと語っている。同じように復刻版ユニフォームを使う「GREAT CENTRAL」〜レジェンドユニフォームシリーズ2012〜(2012年・セントラル・リーグ主催)においても、復刻ユニフォームの選定・プロデュースを行った。
2010年に阪神甲子園球場内にオープンした甲子園歴史館に展示してある、阪神タイガース歴代ユニフォームのイラストは綱島が描いたものである。
(大学HPより)
今回も最後まで読んでくれてありがとう。
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