今回は、2019年5月31日金曜日放送、「チコちゃんに叱られる!」のお話。
祝祭日の祭日ってなに?
そういえば、祝祭日っていいますね。
祭日ってなんだろう?
祝祭日の祭日ってなに?
本日の2問目。
チコちゃん「ねぇねぇ岡村、この中で一番、お休みの日も充実してそうなステキな大人ってだーれ?」
ということで、松井さんが回答者に。
カレンダーの話題。
日曜日以外のお休みの話。
祝日と祭日があります。
チコちゃん「祝祭日の祭日ってなに?」
松井さんは、すったもんだの末、人が関わると祭日(敬老の日など)、人が関わらないと祝日(海の日など)と回答。
正解に至らず、叱られちゃいました。
チコちゃんの答えは、「祭日はない」
松井さん「そのパターンがあるんですか?」
祭日はない
現在の日本には法律に定められた祭日はありません。
六法全書には、国民の祝日に関する法律という項目。
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その条文には「これを「国民の祝日」と名づける。」という表記。
では祝祭日という言葉は一体なんなのでしょうか?
実は法律的には祭日は無くても、かつて祭日だった日が現在は祝日として残っています。
例えば11月23日の勤労感謝の日という祝日。
以前は新嘗祭(にいなめさい)で天皇がその年の収穫に感謝する日で祭日でした。
祭日とは皇室で行われるお祭りの日で、祝日とは社会または国家におけるお祝いの日。
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では、いつ祭日がなくなった?
この祭日が無くなったのは昭和23年。
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昭和23年以前の日本には、祭日が存在していました。
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昭和15年のカレンダーを参照すると。
元日は四方拝、1月3日は元始祭という祭日。
さらに3月の春分の日は春季皇霊祭。
これは、歴代の天皇・皇后・皇親の霊を祭る儀式の日で祭日。
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その他にも
1月5日の新年宴会、
4月3日の神武天皇祭、
9月23日ごろの秋季皇霊祭、
10月17日の神嘗祭、
12月25日の大正天皇例祭など計8日。
では祭日が無くなったというきっかけは?
それは1945年(昭和20年)の太平洋戦争敗戦がきっかけ。
敗戦でGHQによって、国家の定める法律に宗教的な要素を含んではならないとなりました。
祝日はOKですが、祭日にはダメ。
政教分離を定める日本の新憲法において問題視。
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しかし、世論調査の結果で、ほとんどの国民が従来通りの祝日も祭日も残してほしいという希望が。
GHQと国民の板挟みという形に。
当時の芦田均内閣は祭日は無くしても、休みの数は一日でも多く残そう。
そこで、国民主体の休日として祭日を祝日に変更しました。
それが、昭和23年。
戦前の伝統を踏襲しながらも国民の意に添うように日にちだけ残しました。
現在では全部で16日の祝日が定められています。
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結論
というわけで、
「祝祭日の祭日ってなに?」は、
「祭日はない」
でした。
解説してくれたのは
京都産業大学の所功名誉教授。
所功名誉教授
所 功(ところ いさお、1941年(昭和16年)12月12日 – )は、日本の法学者、歴史学者、法制史学者。専門は日本法制史。学位は法学博士(慶應義塾大学・1986年)。京都産業大学名誉教授。公益財団法人モラロジー研究所教授(研究主幹)。麗澤大学比較文明文化研究センター客員教授。京都産業大学日本文化研究所客員教授。皇學館大学特別招聘教授。
岐阜県揖斐郡小島村 (現・揖斐川町)生まれ。岐阜県立大垣北高等学校を経て1964年(昭和39年)に名古屋大学文学部史学科を卒業し、同年皇學館高等学校非常勤講師。1966年(昭和41年)に名古屋大学大学院文学研究科修士課程修了(文学修士・名古屋大学・1966年)。
1966年に皇學館大學助手。1969年(昭和44年)に皇學館大學専任講師。1972年(昭和47年)に同大学助教授。1975年(昭和50年)には文部省初等中等教育局教科書調査官に就任した。1981年(昭和56年)に京都産業大学教養部教授になり、1984年(昭和59年)に京都産業大学法学部教授となる。1986年(昭和61年)に法学博士(慶應義塾大学、学位論文「平安朝儀式書成立史の研究」)[2]。1995年(平成7年)から2004年(平成16年)まで京都産業大学日本文化研究所所長を務め、2006年(平成18年)から藝林会代表に就任(前任の時野谷滋の急逝による)。2012年に京都産業大学を退職し名誉教授。同年より、麗澤大学客員教授、公益財団法人モラロジー研究所道徳科学研究センター研究主幹(教授)。
上代・中世日本政治史・法制史を専門とし、平安時代から中世にかけての神社・祭祀の研究、皇室史関連の著述を多く刊行している。
(Wikipediaより)
京都産業大学(きょうとさんぎょうだいがく、英語: Kyoto Sangyo University)は、京都府京都市北区上賀茂本山に本部を置く日本の私立大学である。1965年に設置された。大学の略称は京産、京都産業、京産大、京都産大、京都産業大、KSU。
1965年宇宙物理学者・荒木俊馬により、京都神山の地に創設された。経済学部、理学部の2学部で開学、2年後の1967年には経営学部、法学部、外国語学部の3学部を増設し、開学から3年という異例のスピードで総合大学に発展した(1969年には在学生総数が1万人を越える)。荒木は産業を「むすびわざ」と説き、大学名には「新しい業(わざ)をむすぶ=新たな価値を生み出す」という期待が込められている。産学連携がアカデミズムに反するという時代背景のなか、あえて産業という言葉を大学名に掲げ、異分野との交流を積極的に推し進めてきた。また、革新色が強いと言われる京都の大学において右派保守的な学風としても知られる。学生闘争の時代に他大学が学生運動で過熱するなか、全共闘阻止のために「白色バリケード」を展開するなど、終始その動きに参加することはなかった。開学以来、世界最速の大型コンピュータを導入し、日本の大学では初めてとなる計算機科学科開設など、情報科学分野に力を入れていたことより「情報の京産大」と謳われた。
1989年に工学部、2000年に文化学部、2008年にコンピュータ理工学部、2012年に総合生命科学部を開設。都市部にある多くの私立総合大学がキャンパスを郊外へ分散させる中にあって、開学以来、大学機能の一拠点化(一拠点総合大学)のスタンスを貫いている。
2014年現在、大学(9学部、9研究科、9研究所・センター)、附属高等学校、附属中学校、幼稚園を擁する総合学園である。
(Wikipediaより)
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