今回は、2020年5月5日火曜日放送、チコちゃんに叱られる!「チコちゃんに叱られる!エールコラボSP」の番組内容を紹介。
なんで秋葉原はオタクの街になったの?
たしかに、秋葉原といえば、オタクの街。
その歴史はどうだったんだろう?
なんで秋葉原はオタクの街になったの?
本日の4つめ目の話題。
チコちゃん「ねぇねぇ岡村、この中で一番、趣味に熱中してそうなステキな大人ってだーれ?」
岡村さんの指名で、窪田さんが回答者に。
オタク的な趣味について話題。
窪田さんは、ガソリンスタンドで勤務したしたこともあり、洗車が好きとのこと。
チコちゃん「オタクの街といえば?」
窪田さん「秋葉原」
チコちゃん「なんで秋葉原はオタクの街になったの?」
窪田さん「電気工学に詳しい人たちが集まったことがきっかけ。」
チコちゃん「ボーっと!生きてんじゃ!ねーよ!」
なぜか歌舞伎口調。
唐沢さんにも聞いてみると、
唐沢さん「隣の上野が「あなたの街」だったのでそれに対応する形で「オタク(お宅)の街」に1980年代からそう言われていた。」
真面目なのか、ボケなのか、わからないまま。。
街頭インタビューでも正解なし。
チコちゃんの答えは、「GHQのおかげ」
GHQのおかげ
終戦直後の秋葉原というのは空襲の影響で焼け野原。
そんな何もない所から復興していく中でオタクの街になっていきました。
終戦直後、秋葉原に近い神田周辺の道路での露店
近くにあった工学系学校の生徒向けにラジオ部品を販売する露店が多数出店。
戦後でラジオメーカーの工場が操業できない状態。
ラジオは完成品の状態で出荷できず。
やむを得ず部品だけを売っていました。
ラジオは当時重要な娯楽の一つ。
知識のある人たちは部品を買い集めて自らラジオを作るという事が出来たのです。
そんな人たちが露店を多く訪れる事に。
こうして神田にはラジオ部品を取り扱う露店がどんどん増えました。
1949年にGHQからお達しで、ラジオの部品の街へ
GHQは、露店撤廃令を発令して露店を取り締まります。
これは、主要道路の拡大・整備を進めたかったから。
道路に多数並んだ露店は邪魔な存在。
となり、道路から露店が消えました。
生活の糧としていた人たちやラジオ部品を求める人たちが困ることの。
そこで露天商側からGHQに直談判。
道路に代わる土地を提供していただくことの。
この時に偶然に選ばれた土地が、空いていた秋葉原駅の高架下スペース。
こうしてGHQの政策によってラジオ部品を取り扱う専門店が高架下などのスペースに集中。
家電の街へ
1950年代に入ると徐々に大手メーカーの経営が再建。
完成品の家電製品が多く出回るように。
ここで秋葉原は一般客向けに普通の家電を売るのか、マニア向けに部品を売るのかに分かれる事に。
それらが混在し、後に起こる家電ブームのけん引役に。
こうして1960年代には家電の街に発展。
高度経済成長期に合わせて表通りは家電販売店が軒を連ねます。
その一方では少し路地を入ればマニアックなお店もあるという状態に。
パソコンの街へ
1973年のオイルショックから始まる経済不況
家電の売り上げが徐々に右肩下がりに。
その一方で、裏通りのお店ではパソコンの販売が急増。
当時のパソコンは専門的な知識が要求される代物で完全なマニア向け製品。
マニア向けの市場がしっかり確立されていた秋葉原では当然のようにパソコンは売れる事に。
家電の流行に乗らずに脈々とマニア向け製品を取り扱っていた裏通りのお店。
それを求めるお客という市場のおかげで秋葉原はパソコンが売れる街に。
そして1990年代初めのバブル崩壊。
表通りの家電販売店が続々と閉店していく中、入れ替わるようにして大型パソコン専門店がオープン。
裏通りのお店が育んでいたパソコン文化が遂に秋葉原の表の顔に。
オタクの街へ
パソコン好きとアニメオタクには自分の趣味趣向を追求するという共通点がありました。
1980年代のパソコン雑誌をみてみると、表紙にはアニメキャラクターが掲載。
そのキャラクターをプログラミングでパソコンの画面に表示できる企画などもあり。
こうして親和性の高かったパソコンとアニメが合体してオタク文化に。
パソコンゲームから派生した美少女フィギュアなども人気が高まります。
このようにオタク文化は、ますます進化。
こうして2000年代になると秋葉原はオタクの街の地位を確立。
まとめ
終戦直後 焼け野原
露店撤廃令後 ラジオ部品の街
1960年代~家電の街
1990年代~パソコンの街
2000年代~オタクの街へ
秋葉原の都市構造
戦後数十年の間にここまで街の顔が変化出来たのは、駅前に巨大なデパート群が並んでいなかった。
秋葉原の都市構造は、土地の区画が細切れになっていました。
土地の区画が狭く、小規模点、マイナー店なお店も、表通りに出店しやすかった。
時代によってどんどん街の顔が変わっていくという秋葉原の特徴はこのような都市構造も関与しているとのこと。
結論
というわけで、
「なんで秋葉原はオタクの街になったの?」は、
「GHQのおかげ」
でした。
補足
オタクという用語のそもそもの始まりについて。
1980代、当時アニメや漫画ファンが集まった時にお互いに「お宅」と呼び合っていたことがきっかけとのこと。
解説してくれたのは
明治大学の森川嘉一郎
森川 嘉一郎(もりかわ かいちろう、1971年 – )は、日本の建築学者、現代日本文化研究者。明治大学国際日本学部准教授。専門は意匠論。日本建築学会所属。
父親の仕事の都合でロンドンなど世界各地を転々としていた。高校時代は漫画研究部に所属していた[1]。大学で建築を専攻したのも、先輩から、建築学科の講義ではパースを描いたり模型を作ったりすることを聞き、漫画を描いたりプラモデルを作ったりといった趣味が生かせそうだったから、とのことである[2]。
1995年、早稲田大学理工学部建築学科卒業。1997年、同大学大学院修士課程(建築設計専攻)修了。2000年まで、同大学院博士後期課程在籍。
博士後期課程在籍時から早稲田大学理工学総合研究センター助手、客員講師、客員研究員を経て、2003年より桑沢デザイン研究所特別任用教授。
2004年にイタリアのヴェネツィアで開催されたヴェネツィア・ビエンナーレ第9回国際建築展で日本館展示のコミッショナーを務め「おたく:人格=空間=都市」と題した展示を企画した。同展は第44回日本SF大会にて星雲賞の自由部門を受賞。
2008年より、明治大学に新設された「国際日本学部」の准教授に就任[3]。2009年夏には、中心となって推進してきた「米沢嘉博記念図書館」が開館となる。2018年11月29日-12月30日開催の「MANGA⇔TOKYO」展(日仏外交160周年記念「ジャポニスム2018」公式企画)のキュレーターを務める[4]。
(Wikipediaより)
明治大学(めいじだいがく、英語: Meiji University)は、東京都千代田区神田駿河台一丁目1番地に本部を置く日本の私立大学である。1920年に設置された。大学の略称は明大(めいだい)。
大学全体
開学記念碑(東京・有楽町)
「近代市民社会を担う聡明な若者を育成する」ことを目指し、1881年にフランス法の自由民権思想を学んだ青年法律家らが創設した[1]。東京都に3キャンパス、神奈川県川崎市に1キャンパスを有する総合大学である[2]。2017年度の志願者数は113,507人で国内の大学全体で第4位[3]であり、また「生徒に人気の大学」ランキングでは第1位[4]である。
国際化拠点整備事業(グローバル30)[5]、グローバルCOEプログラム[6]、共同利用・共同研究拠点[7] などの教育研究事業が採択されている[8]。
主要調査機関による現役高校生志願度調査等では、年度によって1位になるなど[9][10][11][12][13]、例年国内最大規模の入試が行われている。
和泉キャンパス(明大前)
大学の略称は「明大」であり「めいだい」と発音するほか、 和泉キャンパス最寄には「明大前駅」も存在する。
学校法人明治大学は、大学名として商標「明治大学」 称呼「メイジダイガク、メイジ」 を商標登録(登録商標日本第3043764号)しているほか、略称として商標「明大」称呼「メイダイ、メーダイ」も商標登録(登録商標日本第6049745号)をしている。
理念
三木元首相揮毫による「建学の精神」
創立時からの伝統によって確立された建学の精神「権利自由、独立自治」に基づき、自由と自治の精神を養うことを理念とし、「知の創造と人材の育成を通し、自由で平和、豊かな社会を実現する」ことを大学の使命としている[14]。
国際社会を牽引する「世界に開かれた大学」を目指すとしている[14][15][16]。大学の公式パンフレット等[17] では 「個を強くする[14][15][16] 都心型大学」をキャッチフレーズとして使用することも多い。
(Wikipediaより)
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