NHK番組「チコちゃんに叱られる!」の放送内容を詳しく紹介!

チコちゃんに叱られる!

チコちゃんクイズ

なんでおみくじには和歌が書いてあるの?→そもそもそれがおみくじだから

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今回は、2022年3月12日金 チコちゃんに叱られる!「▽おみくじの謎▽なぜ礼金を払う▽なぜ人は旅に出る」の番組内容を紹介。


なんでおみくじには和歌が書いてあるの?





なんでおみくじには和歌が書いてあるの?


本日の最初の話題。


まずは最初のゲスト紹介。


本日のゲストは、2回目で准メンバーの森泉さんとオリジナルメンバー昇格の谷中敦さん


早速問題へ。


チコちゃん「ねぇねぇ岡村、この中で、神社にお参りに行く姿がステキな大人ってだーれ?」


岡村さんの指名で、森さんが回答者に。


神社からおみくじの話題へ。


チコちゃん「なんでおみくじには和歌が書いてあるの?」


森泉さん「無いと寂しいから。」といった趣旨の回答。


正解に至らず、叱られちゃいました。



チコちゃんの答えは、「そもそもそれがおみくじだから。」



そもそもそれがおみくじだから


解説してくれたのは、成蹊大学の平野多恵教授。


「おみくじ=吉・凶などの運勢」と捉えがち。


実は和歌の部分がおみくじ本体。





おみくじというのは神様からのお告げが書いてあるもの。


そのメッセージを和歌を通して人々に伝えています。


平安時代に天皇の命令によって作られた古今和歌集。


神様であるスサノオノミコトがこの世で初めて三十一文字の和歌を詠んだと書かれています。





この事から当時の人々は「神様は和歌で思いを伝える、お告げをするものだ」と考えていました。


この時、神様のメッセージを直接聞く事は出来ません。


そこで、巫女を通じて聞くというのが当時の一般的なやり方。


これがおみくじのルーツの一つ。


「歌占(うたうら)」と呼ばれていました。


平安時代に出世や恋愛などの悩みを持った貴族を中心に広まっていたこの歌占。





約300年後の室町時代になると弓に結びつけられた短冊を占いたい人が一枚選びます。





そこに書かれた和歌を神様からのお告げとして受け取るという現在のおみくじに近いスタイルが誕生。


そこからさらに約350年後の江戸時代。


歌占は和歌を一冊にまとめた本として出版され、多くの人が目にする事に。


この本の使い方は、天・地・人という札をサイコロ代わりに振ります。




出た目のページに書かれている和歌を見て今自分が持っている悩みに対応させるという使い方だったとのこと。




ここでスタッフが4か月前に一回デートした彼女との2回目がないという悩みを占うことに。

出てきたのが、


「沖津かぜ 吹きにけらしな 浜松の 波すみのぼる あきのよのつき」

現代語訳「沖で風が吹き、海辺の松に波が寄せている。空には秋の夜の月が冴え渡っている」といった意味。


先生の解釈では、



沖の風 → 遠い所で何かが起こっている

浜辺の松 → 恋愛対象

波が寄せている → 言い寄っている男がいる

秋の夜の月 → 二人の関係が明るく輝いているという意味との解説。


つまり、和歌の意味をちゃんと理解した上で、自分の悩みに上手く対応させて読み解くというかなり高度な技術が必要。


そこで和歌の意味が分からなくてもおみじくが楽しめるように吉・凶などの運勢の目安が添えられるようになりました。


実際に江戸時代中期に作られた天満宮六十四首歌占御鬮抄(うたうらみくじしょう)



和歌、歌の解説、運勢、項目ごとの寸評が書かれています。


現在のおみくじとほぼ同じような構成に。


おみくじの本質はあくまで和歌。


それを分かりやすくした目安が吉・凶などの運勢表記というのは今でも変わっていません。


運勢だけを見て一喜一憂するのはおみくじの見方としてはちょっとズレていると先生のコメント。


和歌を自分の願いや悩みに重ね合わせ、自分なりの解釈をもってアドバイスとして受け取るというのがおみくじの本当の使い方。





ここで番組から3人のスタッフがおみくじで悩みを相談します。


1人目のスタッフ

悩み:痩せたいのに食欲を抑えられない

運勢:大吉

和歌:わがおもう 港もちかくなりにけり ふくや追手のかぜのまにまに

(意味:追風が吹いて、目指す目的地が近づいている)




スタッフの解釈は、追い風が吹いているので、このまま食べていても「ダイエットは成功する」。


しかし、先生の解釈では「どんどん増して行っている食欲を背に太っていく自分が本当の理想の姿」という意味。


ちなみにおみくじでは恋愛、病気、縁談、転居、争い事などの項目が書かれいます。


そこで、その欄もチェックすると思いますが、自分が持っている悩みと関係の無い項目については「関係が無い、意味がない」と先生のコメント。


二人目のスタッフは、忘れ物が多くてミスが多いとの相談




これもこのままの意味にとるのではなくて、「ひかげさしそう」が暖かい上司や仲間からの助けと思って精進するようにとのこと。


最後は、アナンウンサーの愛さんが、優柔不断であることの悩み。




これも行くべき方向が定まらない人の心模様を読んだのではなく、しっかりとした幹の木になりなさいといった助言とのこと。


和歌が深く読み込めるようになると、よりおみくじメッセージの解釈の幅が広がりますとのことで終了。



結論


というわけで、


「なんでおみくじには和歌が書いてあるの?」は、


「そもそもそれがおみくじだから」


でした。
 


解説してくれたのは


成蹊大学平野多恵教授


人物・来歴
富山県生まれ。1996年お茶の水女子大学文教育学部国文学科卒業。2002年東京大学大学院人文社会系研究科博士課程単位取得退学。2005年「明恵の研究」で文学博士。2005年十文字学園女子大学短期大学部専任講師、准教授[1]、2013年成蹊大学文学部准教授、2016年教授[2]。2012年『明恵-和歌と仏教の相克』で日本古典文学学術賞受賞。中世文学を専門とするが、おみくじや占いについての著書もある。

著書
『明恵 和歌と仏教の相克』笠間書院, 2011.2
『神さまの声をきくおみくじのヒミツ』河出書房新社, 2017.12
『おみくじの歌 三十一文字と神仏のお告げ、そのルーツが鮮明に』コレクション日本歌人選 笠間書院, 2019.4
(Wikipediaより)



成蹊大学


成蹊大学(せいけいだいがく、英語: Seikei University)は、東京都武蔵野市吉祥寺北町3-3-1に本部を置く日本の私立大学である。1949年に設置された。

大学全体
明治、大正期の教育者・中村春二が、高師附属中学校(現・筑波大学附属中学校・高等学校)の同窓にあたる岩崎小弥太と今村繁三の協力を得て創設した私塾「成蹊園」が母体となっており、その後、成蹊実務学校、旧制成蹊高等学校を経て1949年(昭和24年)に新制大学となる。第二次世界大戦前は三菱財閥との繋がりが非常に強く、運営費用の大部分は三菱からの寄付で賄われていた。また1917年(大正6年)開設の成蹊実業専門学校は三菱合資会社の要請によるものであり、実業界、特に三菱での中核となる人材の育成を目的としていた。戦後は小弥太の死や財閥解体をうけて繋がりは弱まったものの、現在でも理事長以下、理事に三菱グループ各社の役員が名を連ねており、三菱グループが大学の経営に深く関わっている。成蹊学園初代理事長・岩崎小弥太以来、三菱金曜会のトップが成蹊学園理事長を務めており、現理事長には岸暁に代わり、佃和夫が就任している。

卒業生として石田衣良・井上荒野・桐野夏生・小池真理子などの直木賞・芥川賞作家を輩出している。

良家の子弟が多いとされるが、開塾当初は「俊才でありながら貧窮家庭である者」を塾生に選び、支援する事を理念としていた。その教育が評判となるにつれ、良家や名家からの入塾希望も相次ぐようになったという経緯がある。

大阪成蹊大学やびわこ成蹊スポーツ大学を運営する学校法人大阪成蹊学園とは、学園名(「成蹊」)の由来が同じというだけで、一切無関係である。

成蹊の名の由来
桃李不言下自成蹊
「成蹊」の名は、司馬遷が「史記」(李将軍列伝)で引用した諺「桃李不言下自成蹊」に由来する。意味は、「桃や李(すもも)は、口に出してものを言うわけではないが、美しい花やおいしい実があるから自然と人がやって来て、そこに小道(蹊)ができる。つまり、桃や李は、人格のある人のたとえで、そういう徳のある人には、その徳を慕って人々が集まってくる。」ということ。

成蹊と三菱の関係

成蹊学園創設に寄与した
三菱財閥4代目総帥・岩崎小弥太
(成蹊学園初代理事長)
成蹊学園初代理事長・岩崎小弥太以来、三菱金曜会のトップが成蹊学園の理事長を務めている。
創立者中村春二は三菱と直接関係はないが、中村春二を支援し、成蹊学園創立に賛助員として尽力し、約24年間成蹊学園の理事長を務めたのが三菱財閥4代目総帥の岩崎小弥太であるため、三菱との関係が生まれた。ただし、三菱グループに所属しているわけではない。
岩崎小弥太の支援は、資金だけではなく社会への橋渡しもあった。三菱は多くの成蹊卒業生を積極的に受け入れ、卒業生は三菱財閥の発展に寄与した。中村春二にあてた書状に「本年度卒業生採用の件、ほぼ決定の運びと相成り候ところ…その中の一、二名は三菱以外の会社にて採用する方が学校の将来の為に良からんと判断、郵便会社に一名、横浜正金銀行に一名採用の交渉致すことと致し候…」とある[1]。
岩崎小弥太は、現在のキャンパスである吉祥寺に約1万坪の農園「岩崎農園」や「清風荘」という数奇屋づくりの別荘を所有していたため、この農園に隣接した約8万坪の広大な土地を購入し、1938年に成蹊学園に寄贈した。8万坪は現在の成蹊学園のキャンパスと同等の広さのため、今の広大なキャンパスがあるのは岩崎小弥太の尽力が大きいことがわかる。1939年、敷地の西側に岩崎小弥太元理事長の鎌倉の別荘の正門が移築され、この門は成蹊学園内に現存している。
1943年、当時の学園理事長だった岩崎小弥太は、岩崎家のゴルフ場であった元箱根の土地6.3万坪を成蹊学園に寄贈し、現在は成蹊学園箱根寮となっている。
1944年6月、トラスコン(当時の屋内運動場)内に「三菱電機成蹊工場」が開設し、勤労動員された旧制高校の生徒達は授業を半ばに深夜までレシーバーの組立て作業に汗を流した[2]。現在は、内装を一新し、カフェテリアやコンビニ等がある憩いの場に用途を変え、「トラスコンガーデン」として現存している。
2007年4月から、成蹊大学・成蹊高校の留学制度を利用して海外に留学する学生の中から、成績が優秀であり、高い留学成果を期待できる派遣留学生を対象とした「成蹊学園三菱留学生奨学金」を導入している。
(Wikipediaより)




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