NHK番組「チコちゃんに叱られる!」の放送内容を詳しく紹介!

チコちゃんに叱られる!

チコちゃんクイズ

スペシウム光線はなぜその形? → 動かないようにするため。CGなく手書きの作画でたいへんだったから。

更新日:

今回は、2019年5月31日金曜日放送、「チコちゃんに叱られる!」のお話。


スペシウム光線はなぜその形?





なつかしいスペシウム光線。


でも、なぜあのポーズ?





スペシウム光線はなぜその形?



本日の4問目。


チコちゃん「ねぇねぇ岡村、この中で一番、子どもの頃にヒーローに憧れたステキな大人ってだーれ?」


岡村さんが立候補して回答者に。


チコちゃん「ウルトラマンの必殺技って知ってる。」


岡村さん「スペシウム光線。」


チコちゃんは、ポーズもリクエスト。


チコちゃん「ウルトラマンのスペシウム光線はなんでその形なの?なんで?」


岡村さん「普通に構えただけでも出てしまう可能性があるから。」


チコちゃん「スペシウム光線の誤射を防ぐ為?はい。ボーっと生きてんじゃねーよ!」


と叱られちゃいました。



1966年にテレビ放送が開始されたウルトラマン。


必殺技と言えばスペシウム光線。


街頭インタビューでも正解なし。


ナレーション「少年時代にウルトラマンごっこでスペシウム光線を出して連戦連勝だったみなさん。その後の人生はいかがだったでしょうか?」


チコちゃんの答えは、「動かないようにするため」



動かないようにするため


片手よりも両手でクロスさせたほうが安定するから。


動いてはいけなかったとのこと。


当時はCGも無いのでむやみに動くと大変な事になるとか。


チコちゃんCGチームの中野さんにインタビュー。


中野さんは、CGの無い時代に撮られたというウルトラマンについて語りますが、フェードアウト。


ナレーション「要するにコンピューターも無い時代に特撮映像を全て手作りしていたのでかなり大変だったと言っています。」



ウルトラマンを制作した円谷プロダクション



1963年に特撮の神様と呼ばれた円谷英二さんが創設。


特撮映像を映画からテレビの世界に持ち込みました。


その最初がウルトラマンの前身となったウルトラQ。


ウルトラマンが誕生したのは1966年。


この時に最も難航したのがウルトラマンの必殺技。


ウルトラ怪獣のサイズが大体40mぐらい。


そのサイズの怪獣と戦うのにウルトラマンの光線が細い線だと迫力がなく地味。





ある程度の大きさの光線が必要と考え、出来たのが光線の幅がひろいスペシウム光線。





スペシウム光線の描き方


光学作画を担当した技術者の飯塚定雄さんにインタビュー。


飯塚さん「一枚一枚描いたのよ。」


実際に50年ぶりに描いてもらいます。


最初に、スペシウム光線のポーズをしたウルトラマンの下絵に薄い紙を重ねて縁取り。


縁取りをした紙の上にさらに紙を重ねてサインペンで光線を一本一本描きます。





描き終わると新しい紙を重ねて、先ほど描いた光線と微妙に長さや位置を変えながらさらに描きます。


この数十枚の作画をパラパラ漫画のようにウルトラマンの下絵に重ねるとスペシウム光線の作画が完成。





飯塚さん「今頃こんなウルトラマン描くなんて夢にも思わなかったよ。俺は。」


適当にラインを引いているのではなく、光線の動きをイメージしながら描くのがコツとのこと。


スペシウム光線の映像を作るには1秒間に24枚の作画が必要。





5秒間だと120枚。


毎週の放送に間に合わせる為に連日のように会社に泊まり込みで光線ばかりを描く作業をしたそう。


出来上がった作画を一コマ一コマ画面に乗せて、光っているように見える加工を施して出来上がり。


ここでウルトラマンの手が動くとスペシウム光線を手の位置に合わせて作る必要が。


手がうごかないようにするために、伝説のポーズが生まれました。





結論


というわけで、


「スペシウム光線はなぜその形?」は、


「動かないようにするため」


でした。
 


飯島監督「チコちゃんの必殺技は?」


チコちゃん「じゃあ行くわよ~!チコシウム光線~!ビーッ!はい。中野さんよろしくお願いします。また仕事が増えちゃった。」


大竹さんや岡村さんも光線をだして、対抗してました。






解説してくれたのは


ウルトラマンの放送開始から監督を務められた初代ウルトラマン監督の飯島敏宏さん。


飯島敏宏さん


飯島 敏宏(いいじま としひろ、1932年9月3日 – )は、日本の演出家、テレビプロデューサー、脚本家。東京府(現:東京都)出身[1]。TBS、株式会社ドリマックス・テレビジョン(株式会社木下恵介プロダクション、株式会社木下プロダクション)を経て、現在はフリー。

東京都立小石川高等学校を卒業後、一浪したのち劇作家・加藤道夫への関心から慶應義塾大学文学部に入学。当時加藤は同大学文学部国文学科で教鞭をとっていたが翌年自殺。国文学科に進む意義を失って英文学科を選択した。
在学中は放送研究会に所属し放送劇の脚本を執筆[1]。放送劇コンクールで受賞者常連となる[1]。大伴昌司や藤川桂介と知り合ったのもこの頃。
1年間のアルバイトを経て1957年、KRT(現:TBSテレビ)に入社[1]。演出部に所属し、数本のテレビドラマでADを務めたのち、同年、『ますらを派出夫会』でテレビドラマ初演出となる。
1962年に製作された『月曜日の男』ではプロデューサー、脚本、演出を担当した上に、水原弘が歌った同名主題歌の作詞(持統院丈太郎名義)を担当した。
1963年に新設の映画部に異動。
1964年、映画部所属の監督として国際放映に出向、滝沢英輔監督の『父子鷹』監督補として付き、『柔道一代』の中盤から監督を担当する。他、同時代の国際放映での作品には『青年同心隊』や『泣いてたまるか』(渥美清版)がある。
1965年、円谷英二率いる円谷特技プロダクションにやはり映画部所属の監督として出向、『ウルトラQ』の監督を担当する。その後も、のちに円谷プロの代表作となる『ウルトラマン』(1966年)や『ウルトラセブン』(1967年)などのウルトラシリーズ、『怪奇大作戦』(1968年)などを世に送り出した。
1970年、木下恵介プロダクション(後の木下プロダクション、現ドリマックス・テレビジョン)にTBS社員として出向、1992年、TBSを定年退職後に木下プロダクションの社長となり、のち会長職に。木下プロでは、演出家のみならずプロデューサーとしてもテレビドラマに携わるようになる。木下恵介プロへの出向は、親しい後輩である実相寺昭雄がTBS退社を申し出る際の付き添いで人事部に行ったところ、その場で命じられたと言う。
山田太一の初期の代表作『それぞれの秋』など『木下恵介 人間の歌シリーズ』(1970年~1977年)や、一大ブームを巻き起こした『金曜日の妻たちへ』(1983年)を手がけ、「ドラマのTBS」の一翼を担った。
2003年(平成15年)7月 木下プロは株式会社ドリマックス・テレビジョンに商号変更、東京放送(現:東京放送ホールディングス)の連結子会社となったあとはエグゼクティブ・プロデューサーとして同社に関わり、2007年、同職を自ら辞しフリーとなる。
(Wikipediaより)




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