今回は、2020年1月17日金曜日放送、チコちゃんに叱られる!「水滴『ぽちゃん』の謎・スーツの襟の穴・国語って?」のお話。
なんで日本語じゃなくて国語っていうの?
たしかに、英語、フランス語、ドイツ語、そして、日本語でなく、国語。
なぜなんだろう?
なんで日本語じゃなくて国語っていうの?
本日の2問目。
チコちゃん「ねぇねぇ岡村、この中で一番、学校の授業が得意だったステキな大人ってだーれ?」
岡村さんの指名で、島崎さんが回答者に。
チコちゃんん「得意科目はなに?」
島崎さん「国語。」
チコちゃん「なんで日本語じゃなくて国語っていうの?」
島崎さん「わざわざ言わなくても皆分かり切っているから。」
その後もやり取りがありますが、正解に至らず叱られちゃいました。
学校の先生たちにも質問してみても正解なし。
チコちゃんの答えは、「日本を一つにするため。」
日本を一つにするため
国語と呼ぶ理由は、「日本を一つにするため」。
江戸時代、日本は300近くの地域(藩)に分かれていました。
それぞれが独立国で、それが集まった状態。
そして場所によって言葉はバラバラ。
人々は「おくにことば」だけで生きていても何も不自由ない時代。
つまり、江戸時代は共通語がない時代。
しかし、幕末の頃になると色んな地方から集まった人々同士でコミュニケーションを取る必要が。
戊辰戦争で伊藤博文が山形の武士を取り調べする際に、あまりにも言葉が通じない。
そこで、あえて文章にせず単語を並べて会話。
また、離れた地域同士の縁談話では言葉が通じないので、書き言葉で会話を成立させていたそう。
昔は現在のようなテレビやラジオも無い時代。
他の地域の言葉を耳にする機会も極端に少ない。
現在も、青森と鹿児島では言葉が全く違います。
番組では、青森の方と鹿児島の方にそれぞれ電話取材。
青森の方
アカガイを食べたいが、値段が高いということらしい。
つづいて、鹿児島の方
令和になっても健康でいたいということらしい。
明治時代
明治時代になると中央政府が日本全国を統治。
日本を一つの国にまとめ上げるには誰もが共通して理解できる共通語(標準語)が必要となります。
明治20年代後半に「日本を一つにする言葉=国語」という呼び名が登場。
これを教える授業も国語と呼ばれるように。
この国語というネーミングについては「言ったもん勝ち。」だった。
東京帝国大学文学部長を務めた上田万年(かずとし)教授が「国語」という言葉を使ったのも大きな理由。
ここで国語には大きな問題が
「どこの地域の言葉を標準語(国語)にすべきか?」
政府は専門の委員(国語調査委員会)を作って全国の言葉を一斉調査。
その結果、首都・東京の言葉かを選ぶことに。
長く日本の中心だった古都・京都の言葉かどちらか?という二者択一。
幕末の頃に20歳ぐらいの人には「京都が都である」という意識が根強く残存。
それよりも若い世代では「東京が都」。
この論争に終止符が打たれるまでには10年以上の歳月が必要でした。
この頃になると標準語=京都派を主張していた高齢者がお亡くなりになっていました。
そして、明治37年(1904年)に標準語問題は決着。
「東京の教育ある人々の言語を基準にする」となりました。
もし、京都の言葉が、標準語になると、天気予報もこんな感じに。
結論
というわけで、
「なんで日本語じゃなくて国語っていうの?」は、
「日本を一つにするため」
でした。
塚原アナから補足
国語という言葉を決める際に、書き文字についても議論になりました。
その時の案には「漢字を使わない」「全てローマ字表記にする」とかもあったそう。
しかし、当時の国民の間で既にひらがなや漢字が浸透していたので、これらは不採用になったとのこと。
解説してくれたのは
日本女子大学の清水康行教授
学歴
東京大学 人文科学研究科 日本 1981
東京大学 文学部 日本 1976
経歴
1996- 日本女子大学 文学部 教授
1991-96 日本女子大学 文学部 助教授
1986-91 名古屋大学 教養部 助教授
1985-86 鶴見大学 文学部 助教授
1981-85 鶴見大学 文学部 専任講師
(大学HPより)
日本女子大学(にほんじょしだいがく、英語: Japan Women’s University 略称: JWU)は、東京都文京区目白台二丁目8番1号に本部を置く日本の私立大学である。1948年に設置された。大学の略称は本女(ぽんじょ)、日女(にちじょ)、古い卒業生および職員は「目白のじょしだい」と呼ぶことが多い。
明治時代に創設された日本女子大学校を前身とする。
日本女子大学校
日本女子大学校は、明治時代に日本で初めての組織的な女子高等教育機関として誕生した。女性に教育は有害無益であると考えられていた当時、創設者成瀬仁蔵は著書『女子教育』によって必要性を力説。創立にあたっては、東京専門学校(現・早稲田大学)の創立者大隈重信が創立委員長となり、総理大臣伊藤博文、学習院院長近衞篤麿、文部大臣西園寺公望、財界人渋沢栄一、岩崎弥之助等各界の重鎮の多大な支援を受け、広岡浅子の働きかけで三井財閥から東京・目白の地(現在地)を寄贈され開校。開校時は、家政学部、国文学部、英文学部の三つの学部と、附属高等女学校が設置された(『わたしの大学』日本女子大学より引用)。
(Wikipediaより)
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