今回は、2019年11月15日金曜日放送、チコちゃんに叱られる!「時代劇の『時代』とは?・なぜインフルは冬にはやる?」のお話。
時代劇の「時代」ってなに?
確かに時代劇って、昔のイメージがありますね。
どこか特定の時代を指す?
時代劇の「時代」ってなに?
本日の2問目。
チコちゃん「ねぇねぇ岡村、この中で一番、 映画やドラマが好きな大人ってだーれ?」
若村さんが、立候補して回答者に。
チコちゃん「時代劇の「時代」ってなに?」
若村さん「平安、戦国、江戸と全てひっくるめて時代劇。」
若村「で?」
チコちゃん「もっと具体的には?」
若村さん「江戸時代の事を時代劇。」
正解にいたらず、叱られちゃいました。
国分さん「これはNHKスペシャルでやってないっすね。」
映画館でインタビューしても、正解なし。
チコちゃんの答えは、「新しい時代を切り開くという意味の「時代」」
若村さん「時代劇がいつ出来たか?に関係しているって事ですね?」
岡村さん「私まだ全然理解できていない。」
新しい時代を切り開くという意味の「時代」
時代劇=古い物と考えられがちですが、実はその正反対。
新しい表現という位置づけで誕生したのが時代劇。
日本で初めて映画撮影が行われたのは1899(明治32)年。
初期の日本映画は舞台演劇をそのまま撮影。
その頃にあった2つのジャンルは、
旧劇映画 – 歌舞伎や講談などの物語を扱ったもの
新劇映画 – 海外作品や当時の現代劇・人気文学作品を扱ったもの
その後、新劇映画は欧米映画の影響で、カメラワークやカット割りなどの撮影手法が進化。
しかし一方の旧劇映画は古くからの作り方(舞台撮影そのまま)。
やがて時代遅れで、古くさい物に。
そこで旧劇映画をこれまでの古い手法からの脱却。
その人物が監督の野村芳亭と脚本家の伊藤大輔。
野村芳亭監督は当時の松竹蒲田撮影所の所長。
松竹初のヒット作となった新劇映画を手がけた監督。
脚本家の伊藤大輔は後に監督としてもメガホンをとり「時代劇の父」とも呼ばれた人物。
この2人が主導して巻き起こった旧劇映画革命。
NHKたぶんこうだったんじゃないか劇場「野村、旧劇やめるってよ ~時代劇誕生物語~」
時は1920年頃、旧劇映画上映後の映画館内。
野村芳亭(鶴見辰吾さん)と伊藤大輔(山西惇さん)
野村「旧劇映画をつまらん!」
伊藤は、新劇映画の監督である野村芳亭に旧劇映画を撮ってみてはと提案。
野村「暴れろってか?悪ないな。ワイが今まで誰も見た事のない新しい旧劇映画を撮ったろやないか!」
こうして新しい旧劇映画の制作がスタート。
2人がまずこだわったのはカット割り。
当時の映画は音声がない無声映画。
物語の進行やセリフは全て弁士の語り。
旧劇映画では弁士が語りやすいように広いサイズ長いカットで撮影。
一つの画面がずっと続いてしまうので、それを改め、細かいカット割り。
さらにセリフは字幕に変更。
また、キャスティングにもこだわります。
旧劇映画では歌舞伎などの古くから続く舞台演劇の伝統にのっとっていました。
女性役は女形の男性が演じるが慣例。
伊藤さん「違う!オッサンやないですか!女を演じるのは女です!」
今では当たり前ですが、当時は画期的。
そこで旧劇映画であっても新劇の役者さんたちで対応。
そして撮影は進み、ついに完成へ。
野村「この映画はもはや旧劇ではない。新しいジャンルの誕生や。」
伊藤「何て名前ですか?」
野村「決まってるだろう!新しい時代を切り開く『時代劇』!」
こうして1922年に新時代劇『清水の次郎長』が公開。
当初は細かいカット割りに弁士たちの呼吸が合わずに変な間が。
また、旧劇なのに新劇の役者が演じことで賛否が巻き起こりました。
しかし、「清水の次郎長」は一大センセーションに。
さらに翌年に、2人は、新時代劇「女と海賊」を制作。
以後は新時代劇、転じて時代劇が次々と政策。
旧劇映画が歌舞伎などの物語のまま。
一方、時代劇では社会的・現代的なテーマを盛り込んでおり、それも支持される要因に。
例えば1928年に公開された「浪人街」。
当時は治安維持法などの国家権力による厳しい規制があった時代。
映画の中で圧倒的権力者である武士。
必死に立ち向かう浪人たちの姿に自分たちを重ね合わせて観客たちは拍手喝采。
こうして時代劇は日本映画・ドラマを代表するジャンルへ。
時代劇はただの過去の再現劇ではなく、新しい表現を使って現代的なテーマを込めたものこそが真の時代劇。
結論
というわけで、
「時代劇の「時代」ってなに?」は、
「新しい時代を切り開くという意味の「時代」」
でした。
解説してくれたのは
時代劇研究家の春日太一さん。
春日 太一(かすが たいち、1977年9月9日 – )は、日本の映画史・時代劇研究家[1]。東京都出身[1]。
人物・来歴
1987年、『独眼竜政宗』で時代劇に目覚め、小学生から名画座に通う生活を送る[2]。中学時代には『電気グルーヴのオールナイトニッポン』のリスナーでピエール瀧のファンであった[3]。 海城高校在学時には、2学年上の飯田泰之と交流があり、のちに『エドノミクス 歴史と時代劇で今を知る』(扶桑社)を共著している[4]。
日本大学藝術学部放送学科に入学。在学時は一時期映画監督・石井輝男の書生を務めたことがある[5]。東映の入社試験を受け、卒業論文のテーマは『仁義なき戦い』だった[2]。
卒業後は大学院に進み、フジテレビの時代劇プロデューサー・能村庸一の著書『実録テレビ時代劇史』を読み、テレビ時代劇を研究対象に定める[5]。能村の知遇を得て、映像京都の撮影現場に半年間密着するなど時代劇撮影スタッフに聞き取り取材を行う。『映画とテレビ交流期の時代劇表現:1970年代の京都3撮影所における集団的個性の形成プロセス』(2008年)で芸術学の博士号を取得[6]、博士後期課程を修了。
映画・ドラマのみならず、プロ野球やサッカー、プロレス、アイドルにも造詣が深く、プロ野球は横浜DeNAベイスターズの30年来のファン[2]。『SCHOOL NINE TUESDAY』(JFNC)には、「あかんやつらの℃-ute論!」(2013年12月31日))[7]、「Berryz工房活動停止で改めて考えるアイドルの引退・解散」(2014年8月19日放送)[8]の回でゲスト出演している。『アイドリング!!!』(フジテレビONE)も2006年の第1回から欠かさず視聴している[9][10]。 ただし、本業である映画・テレビドラマ・時代劇関連以外についての執筆(単著)は断っている[11]。
2014年、『あかんやつら 東映京都撮影所血風録』で第26回尾崎秀樹記念・大衆文学研究賞受賞。
(Wikipediaより)
今回も最後まで読んでくれてありがとう。
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