今回は、2021年2月5日金 チコちゃんに叱られる!「▽きのこのあの形▽火星人の謎▽冠(かんむり)」の番組内容を紹介。
なんで火星人はタコなの?
たしかに火星人といえば、タコのイメージ。
誰が考えたんだろう?
なんで火星人はタコなの?
本日の2つめ目の話題。
チコちゃん「ねぇねぇ岡村、この中で一番、宇宙が好きすぎるステキな大人ってだーれ?」
今回は、岡村さんの指名で若槻千夏さんが回答者に。
宇宙から火星の話題に。
チコちゃんは、火星人のイメージについてスケッチブックに描いてみてとリクエスト。
全員、タコやクラゲの形をした火星人をスケッチ。
チコちゃん「なんで火星人はタコなの?」
若槻さんは、人間とはほど遠い、地球上にはいなさそうな生物を表現したいかなって思った時にタコの形が表現しやすかったと回答。
正解に至らず、叱られちゃいました。
チコちゃんの答えは、「ウッカリしてウッカリしてドッキリしたから」
???、
ウッカリしてウッカリしてドッキリしたから
解説してくれたのは、慶應義塾大学の巽孝之教授。
火星人がタコになった理由はウッカリさん達が全米をドッキリさせたから。
発端はヨーロッパで火星が注目されていたその時代。
ここから教養講座が始まります。
NHチコ教養講座「火星人はなぜタコなのか?」
中山果奈アナウンサーと
巽先生がホワイトボードの前に登場。
昔から火星は人類にとって親しみのある惑星。
1877年にイタリアの天文学者であるジョバンニ・スキアパレッリが望遠鏡で火星の表面に細い模様が沢山あるのを発見。
スキアパレッリはその模様の事をイタリア語で「溝」という意味の単語Canaliと名づけ論文を発表。
そして、この溝という意味のCanaliをウッカリ誤訳してしまった翻訳者が存在。
(諸説あるとお断りあり)
スキアパレッリの論文をフランス語に翻訳したフランス人天文学者、カミーユ・フラマリオンがまず最初のウッカリさん。
火星の溝とイタリアの運河が似ている事からCanaliのフランス語訳をCanalと誤訳。
このCanalは人工的に造られる運河の事。
ただ単なる溝が運河に誤訳。
この時点で、火星に人工的に造られた運河が存在するという意味に。
つまり火星人がいるのでは?というお話に。
先生「フラマリオンからするとカナーリ似てたんでしょうね。」
中山アナは、無表情でスルー。
誤訳されてしまった論文はアメリカ大陸へ。
その論文を読んだアメリカ人天文学者、パーシバル・ローウェルが2人目のウッカリさん。
資産家でもあったローウェルは彼の豊か過ぎる創造力をもって「火星人研究」にまい進する事に。
火星の溝を人工的な運河だと信じ込んだローウェル。
1894年に資材をなげうってアメリカ・アリゾナ州に火星の運河を観測するローウェル天文台を建設。
ローウェルはおよそ20年間に渡って火星を観測し続け、その溝を運河と信じ込んだままスケッチ。
望遠鏡で撮影した火星とローウェルのスケッチを比較すると、本来なら不鮮明なの線がはっきりと描かれるように。
火星人の存在を信じたい気持ちはどんどんエスカレート。
火星の地図を詳細に描き出して
遂には運河に名前までつけちゃいます。
その結果、ローウェルがある考えに至ります。
「これほど複雑な運河を造れるとは!?火星にはきっと高度な知的生命体がいるに違いない!」
「地球から見えるほど巨大な運河を造れるという事は、脳が発達していて頭が大きいハズ。」
「火星の重力は地球の1/3ほどだから脚は細いハズ。」
という勝手なイメージ。
ローウェルは人間とは姿かたちが異なっていて火星人は「グロテスク」と決めつけ。
このようにウッカリさんが2人関わった事で、火星人のイメージ=頭が大きくてグロテスクという勝手なイメージが。
これが人々の中に浸透していく事に。
そんなローウェルの考えを具現化してしまったのが、ローウェルの本を読んだイギリス人SF作家、H.G.ウェルズ。
1898年にローウェルの本をヒントに『宇宙戦争 (原題:The War of the Worlds)』を出版。
後に大ベストセラーとなるこのSF小説には挿絵が描かれています。
H.G.ウェルズが描いた火星人の姿。
そしてこの小説は意外な方法で全米中に広まる事に。
それがあるドッキリ企画。
1938年10月30日のハロウィン前夜にアメリカで小説『宇宙戦争』がラジオ番組で放送。
音楽が流れる中、突然緊急ニュース速報が飛び込むことに。
それは火星人の襲来を知らせるニュース速報。
火星人に襲われるシーンをあたかも現実に起こった事実のように実況中継するという凝った演出。
これを聴いていた人々は本当に火星人が地球に攻めて来たと信じ込んでしまい大パニックが発生。
ちなみにこの放送の中でも「タコのような姿」という一説が登場。
ニュースを信じた人の数は全米で約100万人にのぼったといわれるほどの大事件に発展。
我先に避難しようとする人々の乗った車が大渋滞。
貯水塔を火星人だと信じ込んだ人が銃で発砲したりと大騒ぎ。
そしてこの『宇宙戦争』が日本に伝わったのは昭和に入ってから。
そこから火星人ブームが到来し、少年雑誌には火星人が襲来するSF小説が多数連載される事に。
その挿絵として描かれたのはやっぱりタコの姿をした火星人たち。
その後、手塚治虫の描いた漫画『火星物語』に登場するのもやっぱりタコ型の火星人。
こうして火星人=タコのような姿というイメージがどんどん広まって行って今に至ったとのこと。
結論
というわけで、
「なんで火星人はタコなの?」は、
「ウッカリしてウッカリしてドッキリしたから」
でした。
解説してくれたのは
慶應義塾大学の巽孝之教授
巽 孝之(たつみ たかゆき、1955年5月15日 – )は、日本のアメリカ文学研究者。慶應義塾大学教授、SF評論家でもある。
日本英文学会監事、日本アメリカ文学会会長、アメリカ学会、The Journal of Transnational American Studies編集委員。日本ペンクラブ、日本SF作家クラブ、MLA、ASA、PAMLA、SFRA各会員。日本学術会議会員。慶應義塾大学SF研究会会長。血液型A型。妻はSFおよびファンタジー評論家で明治大学客員教授の小谷真理。
上智大学英文科教授巽豊彦の息子として東京都に生まれる。父同様に敬虔なカトリック信徒として育つ。祖父の巽孝之丞は横浜正金銀行ロンドン支店長で、南方熊楠と親交があった。孝之丞の実弟の中村啓次郎は衆議院議員で、第22代の帝国議会衆議院議長を務め、熊楠とともに神社合祀反対運動を推進した。
学習院中等科時代に2年先輩でのちにSF作家、ミュージシャンとなる難波弘之の勧めによりSF同人誌『宇宙塵』に参加し、1970年には自らが主宰するSF同人誌『科学魔界』を創刊。
学習院高等科を経て1978年上智大学文学部英文学科卒業。1983年同大学院博士課程を単位取得満期退学。1982年に慶應義塾大学法学部英語助手に着任。1984年にフルブライト奨学生として渡米し、コーネル大学大学院にてジョナサン・カラーに師事。1987年8月同大学院博士課程修了(Ph.D.)。帰国後1989年に慶應義塾大学文学部へ助教授として移籍し、1998年より教授。米国文学および現代批評理論専攻。以後も 1993年と2009年にフルブライト奨学金を得て、ブラウン大学、サンディエゴ州立大学、タフツ大学、スタンフォード大学で訪問研究員。
単著デビュー作『サイバーパンク・アメリカ』では、アメリカ留学中に出逢ったサイバーパンクの作家たちとの交流を描き、以後、サンディエゴ大学教授ラリイ・マキャフリイと日米文学共同研究を開始。一方、脱構築や新歴史主義の方法論により植民地時代以来のアメリカ文学史に新たな視点を与えた代表作『ニュー・アメリカニズム——米文学思想史の物語学』の系統は、以後『アメリカン・ソドム』『リンカーンの世紀』『モダニズムの惑星』と続き、四部作で刊行。
同姓同名の九州朝日放送のアナウンサーである巽孝之とは、2004年夏、福岡女子大学集中講義の期間中に初対面を遂げた。
2006年に、英語による著書『Full Metal Apache』をデューク大学より刊行、英語圏デビューを果たした[1](未邦訳)。
2007年「科学魔界」48号が刊行され、2010年の52号まで刊行(立花眞奈美編集)。
2013年、日本SF作家クラブ50周年関係のイベントとして、第2回「国際SFシンポジウム」を企画。
(Wikipediaより)
慶應義塾大学(けいおうぎじゅくだいがく、英語: Keio University)は、東京都港区三田二丁目15番45号に本部を置く日本の私立大学である。1920年に設置された。大学の略称は慶應(けいおう)、慶大(けいだい)。「應」が旧字体のため、報道などでは「慶応」と表記されることもある。
慶應義塾大学は、中津藩士の福澤諭吉が藩命により江戸築地鉄砲洲(現在の東京都中央区明石町)の中津藩中屋敷内に、1858年(安政5年)に開校した「蘭学塾」を起源に持つ大学である[1][2][注釈 1][注釈 2]。淵源は、1796年(寛政8年)設置の国学藩校「進脩館」まで遡り[3]、1839年(天保10年)に開塾した「象山書院」及び江川英龍の「韮山塾[4]」等旧私塾の流れを汲む[注釈 3]。
1863年(文久3年)、蘭学塾から英学塾に変わると、旧幕臣・吉田賢輔等を教授に迎え、1868年(慶應4年/明治元年)前年に木村摂津守の世話により、芝新銭座(現在の港区浜松町)の有馬家控屋敷跡に移転し、年号をとって「慶應義塾」と塾名を定めた[5][注釈 4]。なお、「義塾」とは英語の「パブリックスクール(public school、共立学校)の訳語とされ[5]、このとき、中津藩江戸藩邸の蘭学塾から近代私学としての一歩を踏み出した。まもなく、1866年(慶応2年)に親藩・紀州徳川家の藩命を受けて紀州藩士を迎えて塾舎内に「紀州塾」を開設[6][7][注釈 5]。この他、幕末にかけては「志摩三商会」に脈絡のある三田藩の藩政改革に携わる。
1871年(明治4年)に、三田(港区三田)の島原藩中屋敷跡地を貸し下げられ(翌年払い下げを受ける)、現本部所在地に移った。明治以後、官公私立問わず、近代日本の教育制度、大学制度の立ち上げモデルになり、また後に私立大学となる学校の中で最初に授業料を徴収した[8][9]。廃藩後の1880年(明治13年)までの生徒の割合は越後長岡藩・紀州藩・中津藩(慶應義塾の三藩)を中心とした士族が十中八九であった[10]。
1873年(明治6年)に「慶應義塾医学所」を開設[11]。同年10月には分校「大阪慶應義塾」[12]・「京都慶應義塾」(京都集書院)[13] を設立。また福澤諭吉や松下元芳が塾頭を務め、塾生が一部移籍してきた「適塾」(大阪帝国大学医学部)から受けた影響は特に大きく、大坂とのゆかりが深い。
1873年(明治6年)に修業年限を定めて正則・変則両科を新設、1875年(明治8年)に本科・予備科となる。1876年(明治9年)に土佐立志学舎の運営に参画。1877年(明治10年)に神戸商業講習所を開校・運営、同年に本科第三等以上修了者に徴兵免役の指令が出され、1896年(明治29年)に改正微兵特典適用、1899年(明治32年)に海軍少主計候補生(主計少尉候補生)の受験資格を得た。
1878年(明治11年)には分校「三菱商業学校(明治義塾)」設置に参画。1879年(明治12年)に専門教育課程として夜間法律科(専修学校 (旧制)へ改組:後の専修大学)、理学科、支那語科、簿記講習所を設置。1880年(明治13年)には興亜会へ参画。その他、主な関連校に「藍謝堂」(高島学校)、「高山歯科医学院」、「耕余義塾」、「亮天社」、「三田英学校」等がある。
1890年(明治23年)に大学部(文学・理財・法律の三科)を開設[注釈 6]。明治31年に政治科を開設。1917年(大正6年)大学部に医学科を開設し、北里柴三郎が医学科学長として尽力[14]。1920年(大正9年)には大学令による日本最初の私立大学(旧制大学)として新発足し[注釈 7]、文学・経済学・法学・医学の4学部から成る総合大学となり、予科・大学院を付設した。このとき、学事に関する最高意思決定機関として大学評議会が設けられ[15]、11月には大学病院も開院した。1942年(昭和17年)に中国大陸および南方の農業開発を目指して農学部を増設しようとしたことがあり(獣医畜産専門学校)、1947年(昭和22年)には獣医師の免許を得ていた。
1944年(昭和19年)に「藤原工業大学」が慶応に寄附され工学部を開設。1957年(昭和32年)に商学部を開設。1990年(平成2年)、湘南藤沢キャンパスに総合政策学部・環境情報学部を開設。2008年(平成20年)4月に「共立薬科大学」が合併したことにより、新たに薬学部と薬学研究科を設置。
卒業生は明治初期、官吏、教育界が主流であったが、明治十四年の政変の後、漸次に経済人、実業家が勃興するようになる。また、1880年(明治13年)に日本最古の社交倶楽部「交詢社」を設立した[16]。現在の大学は10学部、大学院は14研究科となっている。
(Wikipediaより)
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