2021年9月1日水曜日のチコちゃんに叱られるは、2021年5月14日金曜日の再放送
(以下、以前のコピペです。)
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今回は、2021年5月14日金 チコちゃんに叱られる!「▽ゼリーの秘密▽大文字と小文字の謎▽西郷隆盛像秘話」の番組内容を紹介。
なんでアルファベットには大文字と小文字があるの?
確かに、大文字と小文字がありますね。
やっぱり、文章がわかりやすいように?
なんでアルファベットには大文字と小文字があるの?
本日の2つめ目の話題。
チコちゃん「ねぇねぇ岡村、この中で一番、英語が喋れるステキな大人ってだーれ?」
みんなが夏木マリさんを注目。
そのまま、夏木さんが回答者に。
夏木さんは、「私違いますよ!」と喋れないことをおことわり。
英語からアルファベットの話題。
フリップに大文字の「A」と小文字の「a」が示されます。
チコちゃん「なんでアルファベットには大文字と小文字があるの?」
夏木さんは、「そういうルールだから。」といったはっきりしない答え。
チコちゃん「ボーっと生きてんじゃねーよ!」
清原さんにも聞いてみると、清原さんは、「人それぞれ、、、好み。」とよくわからない解答。
岡村さんは、「小文字だけだと文章の区切りが分かりにくくなるから。」といった趣旨の回答。
その後、番組では、小文字から大文字にグループ名を改名した元trfで現TRFのDJ KOOさんを訪ねます。
1996年に改名。
その理由は、それまでの小室哲哉さんのプロデュースだったものが、セルフプロデュースという形になったからとのこと。
小室哲哉さんは小文字のtrfのほうが「オシャレに見える」からという理由。
DJ KOOさんは、大文字にして「自立する感じ」を演出する為に変化させたとのこと。
というわけで、DJ KOOさんは、「文字の表情、文字の表情が違うから小文字と大文字の2種類がある」という趣旨の回答。
出張用チコちゃん「ボーっと生きてんじゃねーよ!」
チコちゃんの答えは、「紙を節約するため」
紙を節約するため
解説してくれたのは、慶應義塾大学の堀田隆一教授。
英語のアルファベットはもともと大文字が最初で小文字が後。
文字を多く書けるように(紙を節約する為に)小型化させたという経緯。
最古のアルファベットはおよそ紀元前1700年。
現在のパレスチナやシリアあたりで発生。
アルファベットのルーツは物をかたどった絵。
つまり象形文字。
例えばAは、雄牛の頭の部分を変化させて作られた文字。
アーレフという呼び名だったものが変化してアルファになりAに。
他のアルファベットも象形文字から。
そして現在のような形に出来上がったのが1世紀ごろ。
ちなみに我々はアルファベットと言うと「英語」と思い浮かべます。
そもそもアルファベットはローマ帝国で使用されていたラテン語を書き表すための文字。
そして小文字が誕生したのは現在のフランスやドイツの場所にかつてあったフランク王国。
8世紀ごろに出版ブームが巻き起こった事が大きく関係。
8世紀に西ヨーロッパの大部分を支配したカール大帝。
「これからは学問が大事になる時代」と宣言。
人々は教養を身につけるべく聖書や文献を書き写した書物を量産するように。
ところがここで問題が発生。
当時は今のような近代的な紙がまだ作られていませんでした。
その頃使われていたのは羊皮紙という動物の皮から作られた紙。
これは、とても貴重な物。
この時代の羊皮紙は超高級品。
学問を広めようにも紙のせいでなかなか量産できないという問題が。
そこで、現れたのがイギリスの天才神学者アルクイン。
アルクインが導入したのが小文字。
当時は文字をたくさん詰め込むために大文字を崩した文字を既に使っていました。
アルクインはこの崩し文字たちを小文字に統一する事でもっと紙を節約できると提案。
元々の大文字は石に彫って書かれていました。
そうなると曲線が彫りにくく、直線を主に使って構成されていたという特徴が。
これが紙に書くようになると曲線を上手く使う事でスペースを狭めて文字の圧縮率アップ。
幅が狭い
曲線が多い
これらから書きやすい。
さらに、書くスピードアップ
小さいといった特徴が。
実際に、単純化されて細くなっているのがわかります。
大文字でも小さく書けば良いだけなのでは?
そこで、番組では実際に2つを比較して試して確かめる事に。
再度DJ KOOさんが登場。
一番好きな洋楽だというLMFAO『Party Rock Anthem』の歌詞を書いてもらいます。
一方は大文字のみ、一方は小文字のみ。
「両方とにかく小さく書く」のが条件。
出来上がるととても大きな差
並べて比べると圧縮率の差はあきらかに。
1列で比べてみると、大文字は58文字、小文字は84文字も。
DJ KOOさんも書いていて小文字の方が楽に書けるとのこと。
書き上げた時間も大文字だと23分、小文字だと15分と短縮。
例えばRは3画ですがrなら1画。
効率の面でも小文字が有利になるように作られています。
このように省スペースで書くスピードもアップする小文字。
効率的な書き方としてコピー機も無い手書きの時代に一気に広まりました。
ちなみにDJ KOOさんが全部大文字な理由は
DJ KOOさん「インパクトがあるようにデース!」
DJ KOOさん「これから小文字にしようかな。速いから。」
でお話終了。
結論
というわけで、
「なんでアルファベットには大文字と小文字があるの?」は、
「紙を節約するため」
でした。
解説してくれたのは
慶應義塾大学の堀田隆一教授。
堀田 隆一
Hotta, Ryuichi
教授
rhotta@flet.keio.ac.jp
英米文学専攻
英語史、歴史言語学
古英語から現代英語にかけての言語変化の諸相、および英語史の記述に関心があります。とりわけ言語変化の how と why を探ることに興味があります。なぜ英語の名詞複数形に -s がつくのかという疑問に目覚めてから何年も経ちますが、言語は不思議だらけですので、疑問が次から次へ湧き出てきて尽きることはありません。最近は REcord(名詞)と reCORD(動詞)のペアなどが示す「名前動後」の強勢パターンの歴史的発展や英語綴字史に関心を寄せています。
(大学HPより)
慶應義塾大学(けいおうぎじゅくだいがく、英語: Keio University)は、東京都港区三田二丁目15番45号に本部を置く日本の私立大学である。1920年に設置された。大学の略称は慶應(けいおう)、慶大(けいだい)。「應」が旧字体のため、報道などでは「慶応」と表記されることもある。
慶應義塾大学は、中津藩士の福澤諭吉が藩命により江戸築地鉄砲洲(現在の東京都中央区明石町)の中津藩中屋敷内に、1858年(安政5年)に開校した「蘭学塾」を起源に持つ大学である[1][2][注釈 1][注釈 2]。淵源は、1796年(寛政8年)設置の国学藩校「進脩館」まで遡り[3]、1839年(天保10年)に開塾した「象山書院」及び江川英龍の「韮山塾[4]」等旧私塾の流れを汲む[注釈 3]。
1863年(文久3年)、蘭学塾から英学塾に変わると、旧幕臣・吉田賢輔等を教授に迎え、1868年(慶應4年/明治元年)前年に木村摂津守の世話により、芝新銭座(現在の港区浜松町)の有馬家控屋敷跡に移転し、年号をとって「慶應義塾」と塾名を定めた[5][注釈 4]。なお、「義塾」とは英語の「パブリックスクール(public school、共立学校)の訳語とされ[5]、このとき、中津藩江戸藩邸の蘭学塾から近代私学としての一歩を踏み出した。まもなく、1866年(慶応2年)に親藩・紀州徳川家の藩命を受けて紀州藩士を迎えて塾舎内に「紀州塾」を開設[7][8][注釈 5]。この他、幕末にかけては「志摩三商会」に脈絡のある三田藩の藩政改革に携わる。
1871年(明治4年)に、三田(港区三田)の島原藩中屋敷跡地を貸し下げられ(翌年払い下げを受ける)、現本部所在地に移った。明治以後、官公私立問わず、近代日本の教育制度、大学制度の立ち上げモデルになり、また後に私立大学となる学校の中で最初に授業料を徴収した[9][10]。廃藩後の1880年(明治13年)までの生徒の割合は越後長岡藩・紀州藩・中津藩(慶應義塾の三藩)を中心とした士族が十中八九であった[11]。
1873年(明治6年)に「慶應義塾医学所」を開設[12]。同年10月には分校「大阪慶應義塾」[13]・「京都慶應義塾」(京都集書院)[14] を設立。また福澤諭吉や松下元芳が塾頭を務め、塾生が一部移籍してきた「適塾」(大阪帝国大学医学部)から受けた影響は特に大きく、大坂とのゆかりが深い。
1873年(明治6年)に修業年限を定めて正則・変則両科を新設、1875年(明治8年)に本科・予備科となる。1876年(明治9年)に土佐立志学舎の運営に参画。1877年(明治10年)に神戸商業講習所を開校・運営、同年に本科第三等以上修了者に徴兵免役の指令が出され、1896年(明治29年)に改正微兵特典適用、1899年(明治32年)に海軍少主計候補生(主計少尉候補生)の受験資格を得た。
1878年(明治11年)には分校「三菱商業学校(明治義塾)」設置に参画。1879年(明治12年)に専門教育課程として夜間法律科(専修学校 (旧制)へ改組:後の専修大学)、理学科、支那語科、簿記講習所を設置。1880年(明治13年)には興亜会へ参画。その他、主な関連校に「藍謝堂」(高島学校)、「高山歯科医学院」、「耕余義塾」、「亮天社」、「三田英学校」等がある。
1890年(明治23年)に大学部(文学・理財・法律の三科)を開設[注釈 6]。明治31年に政治科を開設。1917年(大正6年)大学部に医学科を開設し、北里柴三郎が医学科学長として尽力[15]。1920年(大正9年)には大学令による日本最初の私立大学(旧制大学)として新発足し[注釈 7]、文学・経済学・法学・医学の4学部から成る総合大学となり、予科・大学院を付設した。このとき、学事に関する最高意思決定機関として大学評議会が設けられ[16]、11月には大学病院も開院した。1942年(昭和17年)に中国大陸および南方の農業開発を目指して農学部を増設しようとしたことがあり(獣医畜産専門学校)、1947年(昭和22年)には獣医師の免許を得ていた。
1944年(昭和19年)に「藤原工業大学」が慶応に寄附され工学部を開設。1957年(昭和32年)に商学部を開設。1990年(平成2年)、湘南藤沢キャンパスに総合政策学部・環境情報学部を開設。2008年(平成20年)4月に「共立薬科大学」が合併したことにより、新たに薬学部と薬学研究科を設置。
卒業生は明治初期、官吏、教育界が主流であったが、明治十四年の政変の後、漸次に経済人、実業家が勃興するようになる。また、1880年(明治13年)に日本最古の社交倶楽部「交詢社」を設立した[17]。現在の大学は10学部、大学院は14研究科となっている。
(Wikipediaより)
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