今回は、2020年4月10日金曜日放送、チコちゃんに叱られる!▽お城のしゃちほこ▽草食動物の筋肉▽鉛筆の番組内容を紹介。
なんでお城にしゃちほこが乗ってるの?
確かにお城といえば、しゃちほこ。
なぜなんだろう?
なんでお城にしゃちほこが乗ってるの?
本日の4問目。
チコちゃん「ねぇねぇ岡村、この中で一番戦国時代に詳しいステキな大人ってだーれ?」
岡村さんは、大河ドラマに出演中ということで、立候補。
岡村さん「大河のスタッフからは歴史の勉強しなくていいって言われてるんですけどね。」
お城の話題。
チコちゃん「なんでお城にしゃちほこが乗ってるの?」
岡村さん「空から降って来る(厄災的な)ものを跳ね返すため。」
ちなみに、自己評価の正解率は30%。
正解に至らず、叱られちゃいました。
西山さんにもきいてみると、
西山さん「城を攻め落とした際に奪うシンボル的なもの。」
チコちゃん「騎馬戦の帽子みたいな?」
こちらも正解にいたらず。
チコちゃんの答えは、「織田信長へのリスペクト」
織田信長へのリスペクト
初めてお城にしゃちほこを乗せたのは織田信長の安土城(1579年築城)。
世間一般でイメージする「お城」は、織田信長が作り出したものが元になっています。
安土城CG復元図。
そもそも城は、敵の攻撃から守るための要塞。
信長以前の城は土で出来ているものが普通。
高い石垣も無ければ天守というものも存在していません。
山の地形を生かして敵の攻撃を防ぐいわゆる山城が主流。
そこで、信長は、荘厳な城を見せつける事で相手を屈服させるという新しい概念!
なぜ信長は安土城にしゃちほこを乗せた?
信長は、当時、中国文化に傾倒。
中国の皇帝が住む宮殿からヒントを得たからと推測。
中国の宮殿の屋根には竜の装飾が施されていたりします。
しかし、これをそのまま日本に持ち込むとあまりよろしくない状況が。
なぜなら、竜の装飾は胴体が無く、首から上が乗っている状態。
これは武士にとっては打ち首やさらし首をイメージさせるので縁起が悪い。
そこで信長が目を付けたのが鯱(しゃち)。
これは頭が虎(もしくは竜)で胴体が魚という中国の空想上の生き物。
この鯱を反った状態にすれば威勢が良くかっこいい。
その形は中国の矛という武器に形がよく似ていたためにネーミングは鯱矛(しゃちほこ)に。
また、しゃちほこには火事の時に水を出して火を消すという伝説もあったそう。
そこで、守護神的な意味合いもあるそう。
中国的なエッセンスも盛り込みつつ、さらに見栄えも。
このように、しゃちほこは信長にとっては理想のシンボルに。
しゃちほこが鎮座する安土城は天下統一のシンボルになるはずでした。
しかし、その後に起こった本能寺の変により信長はその一生を終えます。
同じ年に安土城の天守、しゃちほこは焼失。
ここに信長の天下統一の夢はきえました。
そこで台頭したのが豊臣秀吉。
信長への敬意を最大限払う秀吉。
城作りに際して参考にしたのが安土城。
こうして秀吉が完成させた大坂城にもしゃちほこが。
自分こそが信長の正当後継者であるというアピールでもありました。
さらに秀吉に付き従う大名たちにもしゃちほこが乗った信長スタイルの城を造らせます。
城の形をどうするのかを決めるのは支配者の特権。
これによって全国にしゃちほこが乗った城が次々に築城されることに。
これはいわば信長に対するリスペクトの表れ。
日本全国の「ビックリしゃちほこ」
三浦先生が紹介。
口紅を付けたしゃちほこ (広島城)
広島城の天守は戦後に再建されたもの。
2009年の発掘調査で約400年前のしゃちほこがほぼ完全な状態で発見されました。
その口元は鮮やかな赤で塗られていて、その姿はまるで口紅。
広島城のしゃちほこは、信長の安土城が焼失した約8年後に作られたしゃちほこ。
恐らく安土城の天守に乗っていたしゃちほこは同タイプだったのではないかと考えられる貴重なもの。
しゃちほこイレブン (姫路城)
世界遺産である姫路城の天守に鎮座する計11個のしゃちほこ。
これは城の主だった池田輝政が、無類のしゃちほこ好きだったから。
奇跡のしゃちほこ (江戸城)
江戸城つまり現在の皇居に今でも見られるもの。
皇居の大手門で無料で一般公開中。
(※現在は休園中)
江戸城の門や櫓にはしゃちほこが乗せられていました。
しかし、東京大空襲でその多くが焼失。
ところが大手門にあったしゃちほこは奇跡的に地面に落ち、焼失を免れて今でも現存。
最後に屋根の上のしゃちほこに注目しながら「麒麟がくる」を観てみるのも一つの楽しみ方という宣伝。
結論
というわけで、
「なんでお城にしゃちほこが乗ってるの?」は、
「織田信長へのリスペクト」
でした。
解説してくれたのは
広島大学の三浦正幸名誉教授。
大河ドラマ「麒麟がくる」の建築考証を務めているお城のスペシャリスト。
三浦 正幸(みうら まさゆき、1954年 – )は、日本の建築学者。広島大学大学院教授。
経歴
愛知県名古屋市出身。1977年、東京大学工学部建築学科卒業。1979年、東京大学大学院工学系研究科建築学専門課程修士課程修了。1980年、広島大学工学部助手。一級建築士、博士(工学)を取得。1986年、東京大学工学博士 論文の題は「四面庇系平面の神社本殿の研究」[1]。1992年、広島大学工学部助教授。1999年より同大学文学部教授に就任。2001年からは大学院文学研究科教授を務める。専攻は日本の古建築(社寺・城・民家・近代建築など)、専門は日本建築史、文化財学である。松山城、宇和島城、原爆ドームなどの整備委員会会員を兼任している。
著書
『日本建築史基礎資料集成一 社殿I』(1998年、中央公論美術出版、共著)
『城の鑑賞基礎知識』(1999年、至文堂)
『城のつくり方図典』(2005年、小学館)
城のつくり方図典 — 改訂新版. 三浦正幸 著.小学館,2016.3.
神社の本殿 : 建築にみる神の空間,三浦正幸 著.,吉川弘文館,2013.2.,歴史文化ライブラリー
平清盛と宮島,三浦正幸 著.南々社,2011.12.瀬戸内文庫
日本の宝鞆の浦を歩く,三浦正幸 著.,南々社,,2010.5.
城のつくり方図典,三浦正幸 著.,小学館,,2005.3.
城の鑑賞基礎知識,三浦正幸 著.,至文堂,1999.9.
(Wikipediaより)
広島大学(ひろしまだいがく、英語: Hiroshima University)は、広島県東広島市鏡山1丁目3-2に本部を置く日本の国立大学である。1949年に設置された。大学の略称は広大(ひろだい)。
文部科学省が実施しているスーパーグローバル大学事業のトップ型指定校、また研究大学強化促進事業の支援対象機関であり、旧官立大学の一つでもある。
筑波大学と共に旧二文理大である。
学全体
広島大学は、旧制広島文理科大学をはじめ広島地区に所在していた官立(国立)の7校を包括、さらに広島市立の1校を併合して、1949年に新制大学として設置された。2004年4月に国立大学法人化、2006年4月には全部局の大学院講座化(大学院部局化)完了を経て、現在では12の学部と11の研究科を設置した大学院大学となっている。
略称としては前述の通り「広大」(ひろだい)が用いられることが多い。ただし、「ひろだい」の呼称が通用するのは中・四国地方を中心とした西日本に限られることが多く、東日本では弘前大学(青森県)を指す場合が多い(詳しくは大学の略称を参照のこと)。
教育理念・目標等
建学の精神(1949年制定)
自由で平和な一つの大学
理念5原則(1995年制定)
平和を希求する精神
新たなる知の創造
豊かな人間性を培う教育
地域社会・国際社会との共存
絶えざる自己変革
到達目標(2001年制定)
世界トップレベルの特色ある総合研究大学
キャッチフレーズ(2008年改定)
「学問は、最高の遊びである。」
(Wikipediaより)
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