今回は、2021年4月2日金 チコちゃんに叱られる!「▽炭酸飲料の謎▽卒業証書入れ秘話▽飛行機の秘密」の番組内容を紹介。
なんで卒業証書を入れる筒はこの柄なの?
確かに、ワニ柄でしたよね。
いったいなぜ?
なんで卒業証書を入れる筒はこの柄なの?
本日の2つめ目の話題。
チコちゃん「ねぇねぇ岡村、この中で一番、卒業してもずっと友だちでいたいステキな大人ってだーれ?」
岡村さんの指名で、伊集院さんが回答者に。
卒業から卒業証書の話題。
チコちゃん「なんで卒業証書を入れる筒はこの柄なの?」
伊集院さんは、ヘビっぽい見た目で、大抵こういう事は中国故事に由来があったりする。
その後、大事なモノをヘビ革に包む古い中国の習慣があったからという旨の回答。
チコちゃん「つまん…ボーっと生きてんじゃねーよ!」
チコちゃんの答えは、「小林さんがオシャレだったから」
小林さんがオシャレだったから
解説してくれたのは、立教大学の有本真紀教授。
そもそも卒業証書を渡すようになったのは、明治時代。
実際の少し小さめの卒業証書。
明治時代中頃までは「縦長に四つ折り」
表に「免状」と書かれたかけ紙をかけていました。
これが明治30年頃からは証書を丸めて渡すように。
この時はそのまま裸の状態で丸めて持ち帰っていました。
そして、その習慣は明治、大正、昭和30年になっても続いていました。
これが昭和35年になると、あの筒が登場。
具体的に何年から卒業証書入れの筒が使われるようになったのかは今となっては不明。
そして、気になるあの柄。
ところが、あの柄の理由についても資料が残っていないそう。
そこでネットで検索。
見つけたのが朝日新聞の記事。
そこには、卒業証書を入れる筒の名前は「賞状筒」
名古屋の文具卸会社「銀島産業」で受けている筒の注文のうち、ワニ柄の発注が95%。
「小林丸筒製作所」によると習字筆や半紙を入れる筒として販売していました。
創業者の小林信雄さんが1935年(昭和10)頃に飽きの来ない柄としてあのワニ柄を採用したのが始まり。
卒業証書入れとして広まったのは戦後になってからといった記載。
そこで、「小林丸筒製作所」電話。
しかしながら、2020年に会社をたたみ、住所があった所も更地に。
そこでワニ柄のあの筒を考案された小林信雄さんの息子さんにお話をうかがう事に。
あのワニ柄が誕生したその時は、息子さんが生まれる前のお話なので、あくまで推測の話。
「NHK本当にたぶんこうだったんじゃないか劇場 クロコダイルダンディー ~ワニ柄の筒誕生物語~」
時は昭和10年、東京都墨田区。
元々箱作りの職人だった小林信雄さん(当時41歳)。
山西惇さんが演じます。
筆・半紙・賞状を入れる丸筒を作る製作所を始めます。
散歩にも背広を着て出ていくほどのオシャレだった信雄さん。
年に何度かは仕立て屋さんを呼んで服を新調する洒落者。
息子さん「モノづくりにこだわっていた人だったから、身の回りのものに関しては全てこだわっていました。本当にオシャレだったと思いますよ。」
そんな信雄さんが会社創業当初に作っていたのは布のような質感の無地の筒。
コツコツと製作を続けていましたがやがて第二次世界大戦が勃発。
ぜいたくは敵とオシャレもままならない混乱の時代。
そして迎えた昭和20年の終戦。
平和と自由をおう歌しようとする時代の幕開け。
そこで、「オシャレで飽きの来ない」デザインの筒を作りたいと思った信雄さん。
目を留めたのは、仕立て屋さんが服を入れるのに使っていた箱の模様。
昭和初頭に日本に入って来たワニ革。
高級素材として男性の間で流行。
小銭入れや財布、かばんなど様々なものが作られるように。
高級でオシャレ=ワニ革というイメージが定着していた時代。
オーダースーツの多くもワニ柄の紙が貼られた箱に入れられていました。
息子さん「多分、衣装箱のワニ柄を見て父もオシャレに見えてんじゃないかなと。」
そこで、早速試作品の製作に着手。
こうして昭和20年にワニ柄の丸筒が完成。
そんな折に製作所に出入りしていた問屋さん。
学校用品の小売店に、丸筒が卒業証書を入れる筒に使えるとセールスをかけてくれました。
そこから、学用品入れから卒業証書入れに転換したのでは?と推測。
それがやがて広まっていき、第一次ベビーブーム。
子どもたちが小学校卒業を迎えた昭和30年代に入るとワニ柄の丸筒がバカ売れ。
そして全国区に。
「たぶんこうだったんじゃないですかね?」という息子さんの許可も出て終了。
結論
というわけで、
「なんで卒業証書を入れる筒はこの柄なの?」は、
「小林さんがオシャレだったから」
でした。
補足
卒業証書を入れる容器としては丸筒以外に、角型の筒や見開きブック式などが現在使われています。
ちなみに小林信雄さんはブック式のものを作るように提案されていたそうですが、丸筒以外は作らなかったとのこと。
解説してくれたのは
立教大学の有本真紀教授
リモト マキ
有本 真紀
ARIMOTO Maki
所属*
文学部 教育学科
文学研究科 教育学専攻博士課程後期課程
文学研究科 教育学専攻博士課程前期課程
職名*
教授
学位
修士(音楽)
連絡先
メールアドレス
ホームページ
http://univdb.rikkyo.ac.jp/view?l=ja&u=100000220&a2=0000044&kc=1&o=affiliation&pp=50&sm=affiliation&sl=ja&sp=2
研究テーマ*
歴史社会学の視点から、近代日本の学校教育を対象として、各地に残る学校史料を収集、かつ、聞き取り調査をしつつ、研究を進めている。とりわけ、①儀式唱歌が人びとにもたらした「記憶」の意味、②「個性調査簿」を中心とする「個性」をめぐるポリティクス、③「小学1年生」という存在の成立と変容に見る「学校的社会化」と「社会の学校化」について考察することを課題としている。音楽科教育への実践的な関心からは、小学校音楽科の指導法を研究している。
研究キーワード
歴史社会学 音楽科教育
(大学HPより)
立教大学(りっきょうだいがく、英語: Rikkyo University/Saint Paul’s (スクール・ニックネーム))は、東京都豊島区西池袋3-34-1に本部を置く日本の私立大学である。1922年に設置された。大学の略称は立大(りつだい)。
教大学は日本聖公会系のキリスト教主義学校(ミッションスクール)である。元々は米国聖公会の宣教師チャニング・ウィリアムズ主教が設立した聖書と洋学を教育する私塾である立教学校が起源である。開校当初は主教らの公的書簡では「Day school for boy」または「Boys school」などと記されていた[1]。
「立教」の由来についてはいくつかの説があり、朱子の『小学』立教篇から採ったとの説[2]、儒学者高愈が註をした「立教法以治人」から採ったとの説[3]、ヘンリー・セントジョージ・タッカーが「立教はセント=ポールズの日本名で、それは『教えの建設』を意味する」と記したとの説[2]、あるいは聖公会の祈祷書にあった「立教師」に由来するとの説もある[4]。
また、「St.Paul’s」は、立教大学の守護聖人が聖パウロであることに由来し、ウィリアムズ主教が1882年頃に命名したと考えられている[5](米国聖公会系の学校には全て「守護聖人」が存在している)。
1922年、大学令による大学となり、文学部、商学部、予科を設置。キリスト教系大学としては同志社大学に次いで2番目に認可された[6]。第二次世界大戦前にはSt.Paul’s Collegeと変更。現在は正式な英称をRikkyo Universityとしているが、今もスクール・ニックネームとして「St.Paul’s」が使われている[7]。
戦間期以降、早稲田大学、慶應義塾大学、明治大学、法政大学、東京大学、そして立教大学で構成される東京六大学の一校に数えられる[注釈 1]。
建学の精神
校歌に謳われるように、立教学院は自らを「自由の学府」と呼び[8]、建学の精神を端的に表す言葉として各所で使用している。モットーは「PRO DEO ET PATRIA(神と国とのために)」[9]。
教育および研究
立教大学におけるキリスト教学とは他のキリスト教系大学にあるような聖職者養成を目的とした神学ではなく、純粋に学問としてキリスト教を研究する宗教学である。したがって信仰の有無は問われない。聖書学からキリスト教芸術やキリスト教の倫理学までキリスト教のうち広範な領域をカバーしている。
(Wikipediaより)
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