NHK番組「チコちゃんに叱られる!」の放送内容を詳しく紹介!

チコちゃんに叱られる!

チコちゃんクイズ

なんで大きな数字を書く時3桁ごとにコンマを入れるの?→福沢諭吉が決めたから

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今回は、2022年3月18日金 チコちゃんに叱られる!「▽ニンニクの謎▽いらっしゃいませ▽数字にコンマ?」の番組内容を紹介。


なんで大きな数字を書く時3桁ごとにコンマを入れるの?




なんで大きな数字を書く時3桁ごとにコンマを入れるの?


本日の最後の話題。


チコちゃん「ねぇねぇ岡村、この中で、計算が速くて数字に強そうな大人ってだーれ?」


最後の問題で、本日は先発していない岡村さんが回答者に。


岡村さんはそろばんをならっていたとのこと。


日本語では4桁毎に言い方が変わるのに、数字では3桁でコンマを入れます。




チコちゃん「なんで大きな数字を書く時3桁ごとにコンマを入れるの?」


岡村さん「偉いさんが打ち間違えた。」という趣旨の回答。


正解に至らず、叱られちゃいました。


ここで、チコちゃんからヒント「大ヒント!誰が決めた?」


それを聞いて、ウエンツ瑛士さんの口元には正解マーク。


チコちゃん「正解!」


チコちゃんの答えは、「福沢諭吉が決めたから。」



福沢諭吉が決めたから


解説してくれたのは、慶應義塾大学の友岡賛教授。


実はこの3桁ごとにコンマを打つというのは国のルールで定められています。


1952年に仕事の効率化を図る目的で各省庁に対して書類の書き方を統一するように通知。


大きな数は、「5,000][62,250円」のように三けたごとにコンマでくぎる。


しかし、日本語の数字の桁は3桁ではなく「4桁」ごとに変わっていきます。





なぜわざわざ3桁で区切っているかというと、このルールは英語の数字システム。




1を表すone、
10を表すten、
100を表すhundred



そして、その後に


thousand、



million、billion、trillionなどで大きな数字を表していくのが英語の数字の数え方。





コンマは英語で数える時の都合に合わせています。


そしてこの3桁区切りコンマが日本で使われている理由が福沢諭吉先生。


明治初期に西洋式の会計ルールに目を付けた福沢先生。


アメリカの簿記(家計や会社の財産やビジネスに関する取引の記録)の本を翻訳して日本に紹介。


それまで日本で使われていた数字システムそのものにもメスを入れて改革。


それまでは漢数字での表記だったので、とても複雑でパッと見で非常に分かりにくい。

これをまず整理。


新たな表記ルールを提案します。


位を省略





漢字での表記は残しつつも位の書き方が整理されて分かりやすくなりました。


「三三五三」とした方が「三千三百五十三」より明らかに楽で分かりやすい。


アラビア数字と比べても明らかです。





しかし、福沢諭吉の目論見は外れて西洋式簿記はなかなか広まりません。


しかし、位がそろえる書き方は合計がだしやすいので、この数字の書き方はすぐに浸透。




この時に3桁区切りも一緒に広まりました。


ちなみに4桁ごとに数え方が変わるのは日本、中国、韓国、モンゴル(一部)ぐらい。





世界的には3桁ごとがスタンダード。


また、世界的にはコンマ・ドット問題という問題も発生。


3桁区切りと小数点以下を一緒に表記する際には12,345.67と書くのが普通と思っている日本や他の国々。





しかし、ドイツ、イタリア、フランスなどは12.345,67とコンマとドットの使い方が逆になっている国々も存在。


国によってコンマとドットの捉え方が違っていると非常にややこしい。





現在の基準では3桁ごとに空白を入れ「点やコンマは入れない」のがルール。





つまり先ほどの表記だと12 345.67かもしくは12 345,67と表記する方が間違いが起こりにくくなるので推奨。


ちなみに1万円や5千円札などにコンマが無い理由はコンマとドットを混同して間違わないようにといるルールに則ったものとのこと。





結論


というわけで、


「なんで大きな数字を書く時3桁ごとにコンマを入れるの?」は、


「福沢諭吉が決めたから」


でした。
 


解説してくれたのは


解説は慶應義塾大学の友岡賛教授

トモオカ ススム
友 岡   賛  教 授

【Webページ】

【ゼミページ】
学歴(卒業・学位取得):
  学部
慶應義塾大学商学部卒業
  大学院
慶應義塾大学大学院商学研究科修士課程修了
慶應義塾大学大学院商学研究科博士課程単位取得退学
博士(商学)(慶應義塾大学)


研究室:三田研究室411号室(内線23161)
E-mail:tomo@fbc.keio.ac.jp
(@は全角で表示してあります。半角の@に置き換えてご利用ください)

担当科目:会計史I・II,財務会計各論(会計基礎理論)ほか

専門領域:会計学(財務会計論,会計史)

研究紹介:会計の本質的機能を考える。

主要著作・論文
〔著書〕
 1.『会計学の行く末』(泉文堂,2021年)
 2.『会計学の地平』(泉文堂,2019年)
 3.『会計学の考え方』(泉文堂,2018年)
 4.『日本会計史』(慶應義塾大学出版会,2018年)
 5.『会計と会計学のレーゾン・デートル』(慶應義塾大学出版会,2018年)
 6.『会計の歴史』(税務経理協会,2016年(改訂版,2018年))
 7.『会計学の基本問題』(慶應義塾大学出版会,2016年)
 8.『会計学原理』(税務経理協会,2012年)
 9.『会計士の誕生』(税務経理協会,2010年)
 10.『会計プロフェッションの発展』(有斐閣,2005年)

所属学会・団体:
 日本会計研究学会,国際会計研究学会,日本会計史学会,経営史学会,日本監査研究学会

海外歴:
 1990年-1992年 グラスゴー大学(スコットランド)特別客員研究員
(大学HPより)



慶應義塾大学


慶應義塾大学(けいおうぎじゅくだいがく、英語: Keio University)は、東京都港区三田二丁目15番45号に本部を置く日本の私立大学である。1920年に設置された。大学の略称は慶應(けいおう)、慶大(けいだい)。「應」が旧字体のため、報道などでは「慶応」と表記されることもある。

慶應義塾大学は、中津藩士の福澤諭吉が藩命により江戸築地鉄砲洲(現在の東京都中央区明石町)の中津藩中屋敷内に、1858年(安政5年)に開校した「蘭学塾」を起源に持つ大学である[1][2][注釈 1][注釈 2]。淵源は、1796年(寛政8年)設置の国学藩校「進脩館」まで遡り[3]、1839年(天保10年)に開塾した「象山書院」及び江川英龍の「韮山塾[4]」等旧私塾の流れを汲む[注釈 3]。

1863年(文久3年)、蘭学塾から英学塾に変わると、旧幕臣の吉田賢輔等を教授に迎え、1868年(慶應4年/明治元年)前年に木村摂津守の世話により、芝新銭座(現在の東京都港区浜松町)の有馬家(久留米藩)控屋敷跡に移転し、年号をとって「慶應義塾」と塾名を定めた[5][注釈 4]。なお、「義塾」とは英語の「パブリックスクール(public school、共立学校)の訳語とされ[5]、このとき、中津藩江戸藩邸の蘭学塾から近代私学としての一歩を踏み出した。まもなく、1866年(慶応2年)に親藩である紀州藩(紀州徳川家)の命を受けて藩士を迎えて塾舎内に「紀州塾」を開設[7][8][注釈 5]。この他、幕末にかけては「志摩三商会」に脈絡のある三田藩の藩政改革に携わる。

1871年(明治4年)に、三田(港区三田)の島原藩中屋敷跡地を貸し下げられ(翌年払い下げを受ける)、現本部所在地に移った。明治以後、官公私立問わず、近代日本の教育制度、大学制度の立ち上げモデルになり、また後に私立大学となる学校の中で最初に授業料を徴収した[9][10]。廃藩後の1880年(明治13年)までの生徒の割合は、慶應義塾の三藩(越後長岡藩、紀州藩、中津藩)を中心とした士族が十中八九であった[11]。

1873年(明治6年)に「慶應義塾医学所」を開設[12]。同年10月には分校「大阪慶應義塾」[13]と「京都慶應義塾」(京都集書院)[14]を設立。また福澤諭吉や松下元芳が塾頭を務め、塾生が一部移籍してきた適塾(大阪帝国大学医学部)から受けた影響は特に大きく、大阪とのゆかりが深い。

1873年(明治6年)に修業年限を定めて正則・変則両科を新設。1875年(明治8年)に本科・予備科となる。1876年(明治9年)に土佐立志学舎(高知県)の運営に参画。1877年(明治10年)に神戸商業講習所(兵庫県)を開校。同年に本科第三等以上修了者に徴兵免役の指令が出され、1896年(明治29年)に改正微兵特典適用、1899年(明治32年)に海軍少主計候補生(主計少尉候補生)の受験資格を得た。

1878年(明治11年)には分校「三菱商業学校(明治義塾)」設置に参画。1879年(明治12年)に専門教育課程として夜間法律科(専修学校 (旧制)へ改組:後の専修大学)、理学科、支那語科、簿記講習所を設置。1880年(明治13年)には興亜会へ参画。その他、主な関連校に藍謝堂(高島学校)や高山歯科医学院、耕余義塾、亮天社、三田英学校等がある。

1890年(明治23年)に大学部(文学・理財・法律の三科)を開設[注釈 6]。1898年(明治31年)に政治科を開設。1917年(大正6年)、大学部に医学科を開設し、北里柴三郎が医学科学長として尽力した[15]。1920年(大正9年)には大学令による日本最初の私立大学(旧制大学)として新発足し[注釈 7]、文学部、経済学部、法学部、医学部の4学部から成る総合大学となり、予科と大学院を付設した。このとき、学事に関する最高意思決定機関として大学評議会が設けられ[16]、11月には慶應義塾大学病院も開院した。太平洋戦争下の1942年(昭和17年)に中国大陸および南方の農業開発を目指して農学部を増設しようとしたことがあり(獣医畜産専門学校)、戦後の1947年(昭和22年)には獣医師の免許を得ていた。

1944年(昭和19年)に藤原工業大学が慶応に寄附され、工学部を開設。1957年(昭和32年)に商学部を開設。1990年(平成2年)、湘南藤沢キャンパスに総合政策学部と環境情報学部を開設。2008年(平成20年)4月に共立薬科大学が合併したことにより、新たに薬学部と薬学研究科を設置した。

卒業生は明治初期、官吏、教育界が主流であったが、明治十四年の政変の後、漸次に経済人、実業家が勃興するようになる。また、1880年(明治13年)に日本最古の社交倶楽部「交詢社」を設立した[17]。現在の大学は10学部、大学院は14研究科となっている。
(Wikipediaより)




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