今回は、チコちゃんに叱られる! ▽関東と関西▽ナマケモノの不思議▽焼き肉の謎 初回放送日:2024年9月20日を紹介。
関東・関西の「関」って何?
関東・関西の「関」って何?
チコちゃん「ねぇねぇ岡村、この中で一番、日本中を飛び回っている旅好きな大人ってだーれ?」
チコちゃん「関東・関西の「関」って何?」
チコちゃんの答えは、鈴鹿関(すずかのせき)・不破関(ふわのせき)・愛発関(あらちのせき)の「関」
鈴鹿関(すずかのせき)・不破関(ふわのせき)・愛発関(あらちのせき)の「関」
「関」はもともとは、関所の事。
古くから日本各地の道や国境などに設けられていました。
そこを通る人をチェックする現在の空港の入国審査や保安検査場のような場所。
人の行き来を監視しやすくするために主に山に挟まれた道が狭い所に設置されることが多かった。
この関所は古代の日本各地に存在していました。
この時代は、奈良の平城京や京都の平安京などを中心地。
そこに繋がる道が整備された時に、朝廷やその周辺の安全を守る目的で関所が作られました。
中でも朝廷に直接繋がる道となった3つの関があります。
それが、
・東海道の鈴鹿関
・東山道の不破関
・北陸道の愛発関
これらは、7世紀後半に作られ、朝廷の安全を守る重要な役割を果たしていました。
そんな3つの関所から東側を朝廷のある京都や奈良から見て関東と呼称。
現在の関東は東京、神奈川、千葉、埼玉、栃木、群馬、茨城を指す言葉ですが、
昔はより広いエリアを指す言葉で中部地方や東北地方もひっくるめて関東でした。
この関東という表現はいつから使われ始めたのか?
記録は残っていないようですが、平安時代には既に使われていました。
そしてこの関東の指すエリアが変わっていったのは奈良時代。
朝廷の勢力が徐々に拡大して東へ伸びていくにつれ、現在の中部地方が関東から外れる事に。
また、朝廷の軍事活動によって関東は北の方まで広く陸地が続いているという事が判明。
現在の東北地方は都から延びる道の奥にあるという意味で「みちのく」と呼ばれるように。
こうして3つの関より東側を全て関東と呼んでいたのが、中部、東北(みちのく)という新たな表現が生まれることに。
その後、関東が指すエリアは徐々に狭まっていきます。
鎌倉時代になると幕府がある鎌倉周辺の国々を関東と呼ぶように。
さらに京都や奈良の人たちは鎌倉幕府の武士を「関東の武士」と呼んだりするようになります。
そこから、鎌倉幕府が支配する土地を「関東御分国(ごぶんごく)」と呼称。
関東という言葉はエリアとしてではなく、鎌倉幕府そのものを指す言葉としても使われるようになりました。
そして室町時代になって幕府が京都へ移ると関東の支配が手薄となります。
それを恐れて室町幕府は第2の幕府とも呼ぶべき鎌倉府を設置。
その鎌倉府の支配下となった相模、武蔵などの個別の国々をまとめて関東と呼ぶようになりました。
その後、明治時代になると廃藩置県によって都道府県が整備されて現在の形に。
一都六県を指すように変化しました。
一方で「関西」の言葉が一般的に使われ始めたのは明治時代になってから。
古くから日本の中心地は天皇がいた京都や奈良という認識が広く一般的でした。
日本の中心地にいる人たちにとっては自分たちがどこどこより西側にいるという捉え方はしなかったのではとのこと。
江戸時代後期に江戸を中心に栄えた町人文化の化政文化が盛り上がります。
また、明治時代にみやこが京都から東京へ移されたことで日本の中心=東京というイメージが徐々に浸透。
そこで初めて関東よりも西という感覚が生まれて関西の言葉が誕生したとのこと。
最後に関東と関西の人達がその違いを述べて終了。
関西は味付け海苔で関東は焼きのり
みそ汁とおかずの置き方が異なる。
ICカードの違いなど。
結論
というわけで、
「関東・関西の「関」って何?」は、
「鈴鹿関(すずかのせき)・不破関(ふわのせき)・愛発関(あらちのせき)の「関」」
でした。
解説してくれたのは
東京大学史料編纂所の本郷和人教授。
名前 本郷 和人 / HONGOU Kazuto
学位 博士(文学)(東京大学)
職名 教授
所属 史料編纂所
古代史料部門
所属サイトURL http://www.hi.u-tokyo.ac.jp/index-j.html別ウィンドウで開く
専門分野 日本中世史
研究テーマ 中世政治史
研究テーマに関するキーワード 統治,学び
実績等URL http://www.hi.u-tokyo.ac.jp/personal/kazuto/index.html
(大学HPより)
今回も最後まで読んでくれてありがとう。
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