今回は、2018年10月12日金曜日放送、「チコちゃんに叱られる!」のお話。
そもそも運動会をやることになったのはなぜ?
そういえば、小学校から高校まで運動会や体育祭があったね。
なんでやることになったのかって、考えたこともなかったよ。
そもそも運動会をやることになったのはなぜ?
今回の4つ目。
チコちゃん「子どもの頃、運動会で大活躍していたスポーツマンな大人ってだーれ?」ということで、岡村さんが立候補。
チコちゃん「そもそも運動会って何でやるの?」
岡村さん「盛り上がるもんね?みんなが、一つになるし。」
チコちゃん「では、そもそも運動会をやるようになったのはなぜ?」
岡村さん「ずうーっと机に向かってるとやっぱり血液の流れが悪くなります。
せっかく校庭っていうのがありますので、もっともっと運動しようよ!
運動の会だ、運動会だ、エイ!エイ!オー!って。」
とのことで、正解に至らず、叱られちゃいました。
チコちゃんの答えは、
「兵隊さんがグレないため」
兵隊さんから運動会って、始まったんだ。
兵隊さんがグレないため
解説してくれたのは、中京大学の木村吉次名誉教授。
1870年(明治3年)創立した海軍士官の養成所である海軍兵学寮。
。
そこで行われた競闘遊戯(きょうとうゆうぎ)が学校行事としての日本初の運動会とのこと。
当時の兵学寮の授業カリキュラムは教室で座って学ぶ座学が中心。
当時の日本にはスポーツという概念がほぼなく、体育も馬術や武道のみ。
当時の顧問団団長だったイギリス海軍のアーチボルド・ルシアス・ダグラス。
イギリス海軍顧問団の団長で、日本に滞在している期間中に日本における海軍兵学校教育の基礎を固めたとされている人物。
彼は、座学だけで気分がうつうつとしてくると、よくない遊びに走るかもしれないと心配。
そこでダグラス団長は、学生たちがグレないように運動する事を推奨。
そして開催されたのが日本初の運動会たる競闘遊戯。
当時のプログラム(明治7年 第1回競闘遊戯)
競技種目
すずめのすだち
つばめのとびならい
あきのむくどり
ふるだぬきのつぶてうち
こもちざるのかけぬけ
とんぼのかざがへり
とびのうおのなみきり
さぎのうをふみ
あきのむくどり
あけのからす
ぼらのあみごえ
てふのはなおひ
かごのにげづる
ばしゃのはなれうま
わしのいなとり
うさぎのつきみ
さるのももとり
すまのしほくみ
もろこしのしかおひ
など。
「すずめのすだち」は140m走の事。
元々この競技は英語で考案されたそう。
英語版のプログラム
Flat Race for Students under 12 years Dist. 150 Yards.
12歳以下の生徒が参加する150ヤード(140m)走。
イギリス人教師たちがこのプログラムを作ったので、どう翻訳したらいいのか?
140m走という言い方はなかった当時。
英語表記をどんな日本語に置き換えるか。
そこで、ただ直訳で翻訳するよりも「面白い名前をつけよう」と工夫を凝らす事にしたとのこと。
そうして生まれたのが「すずめのすだち」
12歳以下の若い学生(兵学寮で一番低学年のクラス)が参加する事から、雀の巣立ちを連想。
(注:さるのももとりは、卵拾い競争のこと)
や、その他にも
などなど。
この競闘遊戯は大盛況のうちに閉幕したそう。
どうして、運動会が全国に広まった?
これに目を付けた初代文部大臣の森有礼(もりありのり)。
一橋大学の創設者で明治六大教育家に数えられる人。
森有礼は全国の学校に運動会を義務付ける事を決定。
その時に導入されたのが兵式体操。
兵式体操とは軍隊式の集団訓練を通して、愛国の士気を高める事を目的とした体操。
この体操を通して規律や秩序を守るような人を育てる狙いがあったそう。
現在も残る「気を付け」「前ならえ」「全体進め」などはこの兵式体操の名残りだそう。
昭和に入って日本が戦争に突き進むと運動会はその軍事色を強めていく。
爆弾輸送や爆弾三勇士など、より戦争をイメージした種目がおこなわれていたんだ。
戦争が終わり平和な時代が訪れると軍事色の濃い種目や訓練的な種目は消滅。
現在のような運動会の種目になったとのこと。
元々は兵隊さんのための運動会だったものが、時代に合わせて変化してきたんだね。
結論
というわけで、
「そもそも運動会をやることになったのはなぜ?」は、
「兵隊さんがグレないため」
でした。
塚原アナから補足
前述のユニークな種目名についてですが、実は2年後に開かれた第2回競闘遊戯では、平がけ、まり投げと割と普通な名称に改められてしまったとの事。
なかには「こもちざるのかけぬけ」のように廃止された競技もあったそうです。
(おまけ)「位置についてよーい」は誰が考えた?
チコちゃん「ところでさっきのVTRにも出てきたスタートの合図。『位置についてよーい!』っていうのは誰が決めたか知ってる?」
高橋さん「有名な方ですよね?ってことは。」
チコちゃん「あのね。山田さんが決めたの。」
立川さん「山田さん?」
解説してくれたのは、東京・三鷹市全国陸上競技スターター研究会代表の野﨑忠信さん。
スターターの補助役員として1964年の東京オリンピックにも参加した方でスターターの生き字引的存在。
実は「位置についてよーい!」に決まる前は、スタートの掛け声は方言などもあってバラバラだったとのこと。
明治16年の開成学校運動会
「いいか ひい ふう みい」と傘を振り下ろしスタート。
大正2年第1回日本陸上競技選手権大会
「支度して 用意!」
その他にも、
「腰を上げて 待て!」
「ガッテン承知!」
「おんちゃなケツ上げぇ!」とさまざま。
スタートの合図を一般公募
日本陸上競技連盟では昭和2年にスタートの合図を一般公募。
その公募で選ばれたのが「位置についてよーい!」
当時、東京・神田にお住まいだった山田秀夫(ひでお)さん。
塚原アナから補足
実は「この位置についてよーい!」の考案者は山田敏夫(としお)さん。
この名前は山田秀夫さんの弟さん。
スタート合図の一般公募では「1人につき1つ」というルールが決まっていたために、2つの案を応募したかった秀夫さんは弟さんの敏夫さんの名前を借りて応募したとの事。
結果として敏夫さんの名前で応募した「この位置についてよーい!」が採用されたとのこと。
秀夫の名前で応募した案は「位置につけ、よーい!」だったそうです。
(注釈)運動会の起源についての諸説あり。
今回紹介されたのは学校で行われた最初の運動会。
横須賀製鉄所で行われた運動会が日本で最初の運動会であるとする説もあるとのこと。
解説してくれたのは
中京大学の木村吉次名誉教授。
木村吉次名誉教授
所属機関・部署: 旧所属 中京大学 体育学部 体育科学科
職名: 教授
研究分野: スポーツ科学
研究キーワード: スポーツ史 , スポーツ哲学
競争的資金等の研究課題 (4件):
1975 – 近代オリンピック史研究
1994 – 運動会発達史研究
1966 – 近代体育理論史研究
1995 – 東京大学体育史研究
(JGrobalより)
中京大学(ちゅうきょうだいがく、英語: Chukyo University)は、名古屋市昭和区八事本町101-2に本部を置く日本の私立大学である。1956年に設置された。大学の略称は中京(ちゅうきょう)、中京大(ちゅうきょうだい)。
大学全体
中京大学は1923年創立の中京商業高校(現:中京大中京)を運営していた学校法人梅村学園が1954年に設立した中京短期大学が前身の4年制大学である。1956年に商学部の単科大学として開学し、現在は11学部・17学科・12研究科をもつ総合大学になっている。
都心近郊の八事山興正寺の森に隣接する名古屋キャンパスは大学本部に文系学部と法科大学院が設置されている。また、郊外の丘陵地にある豊田キャンパスにはスポーツ科学部(運動競技施設)があり複数のオリンピック代表選手を輩出している。
建学の精神
中京大学の建学の精神は「学術とスポーツの真剣味の殿堂たれ」である。これは、大正12年に学校法人梅村学園の母体である中京商業学校の開設に際して、創立者である梅村清光がその理念と気概を謳った「文武不岐」が起源となっている。清光の死後に学園を継いだ梅村清明が、戦後にシベリア抑留から帰国して後、「文」を「学術」に、「武」を「スポーツ」に翻訳し修正することで、建学の精神が完成した。
(Wikipediaより)
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