今回は、2020年12月11日金 チコちゃんに叱られる!「▽なぜ上ばきをはく▽ハリウッド誕生秘話▽かつお節の謎」の番組内容を紹介。
なんで学校で上履きを履くの?
たしかに、むかし、履いていました。
校内が汚れないため?
なんで学校で上履きを履くの?
本日の1つめ目の話題。
チコちゃん「どうも~こんチコは~!」
最初のゲスト紹介。
チコちゃん「初登場、オセロ(松嶋尚美さん)」
そして、DAIGOさんは、
チコちゃん「BREAKERZ」
早速一問目。
チコちゃん「ねぇねぇ岡村、この中で一番、充実した学校生活を送っていたステキな大人ってだーれ?」
DAIGOさんは、高2からは充実していたということで、回答者に。
上履きの話題。
チコちゃん「なんで学校で上履きを履くの?」
DAIGOさん「廊下や教室が汚れるのを防ぐため。」
チコちゃん「ボーっと生きてんじゃねーよ!」
と正解に至らず、叱られちゃいました。
チコちゃんの答えは、「出入り口を一つにするため。」
出入り口を一つにするため
解説してくれたのは、元京都精華大学、特任教授の中西宏次先生。
学校の上履きは「土足だと校内が汚れるから」と思われがち。
しかし、それだけが目的ではないとの事。
もともと日本では家に上がる時に玄関で靴を脱ぐ習慣があります。
江戸時代に庶民が通った寺子屋でも生徒たちは履物を脱いで学んでいました。
学校の前身といわれる教育施設である寺子屋はお寺や先生の自宅を利用するケースがほとんど。
生徒たちは履物を脱ぐのが当たり前でした。
上履きが学校で使われるようになったきっかけ
明治時代の初めに政府が行った近代化政策の一環。
明治5年、政府は欧米諸国のような近代的な国家を目指す一環として子どもたちの教育を義務化。
寺子屋が学びたい人だけが通うものだったのに比べると大きく変化。
これによって多くの子どもたちが義務教育の対象となりました。
そうなると寺子屋として使っていた建物だけでは不足する事態に。
そこで建てられたのが学校。
その建築様式はやはり欧米諸国流の洋風建築。
ところが、洋風建築では履き物を脱いで上がる場所、つまり玄関(下足場)が基本的に存在していませんでした。
和風建築では玄関で履物を脱いで上がるのが前提。
洋風建築だと外履きのままで玄関を通って家に入るのが前提。
玄関がありません。
では実際に建てられた学校はどうだったのか?
明治8年に建てられた山梨県の睦沢学校
洋風建築に「土足室」が存在。
明治9年の長野県の旧開智学校
「傘履物置場」が存在。
確認するとどちらの学校でも生徒たちは履物をそこで脱いでいたことが判明。
はっきりとした理由は不明ですが、日本古来の履物を脱いで室内に上がるという習慣を何とか洋風建築に合わせた折衷案。
その結果、生まれたのが洋風建築の校舎に履き物を脱ぐ場所(昇降口)。
これは、日本独特のハイブリッド建築。
しかし、洋風建築の校舎は床が板敷になっていたので冬は冷たくなり、履物がない状態ではなかなかつらい現実。
そこで履物を脱いでから校舎の中で快適に過ごすための上履きが登場。
これこそが上履きが生まれたきっかけ。
生徒たちは上履きに履き替える事で必ず下駄箱がある昇降口を通ります。
土足OKになってしまうと昇降口以外の扉からでも校内に入る事が出来ます。
こうして出入り口を一つにする事で児童をしっかり見守る事が出来るというセキュリティ上のメリット。
例えば大人になると会社やお店に土足のままで入るのが普通になっています。
それに違和感を感じる人はほぼいません。
学校もそれと同様に上履きなしでもおかしくありません。
しかし、今でも上履きの文化が残っているというのは、子どもたちの登下校の様子を把握しやすいというメリットが大きいから。
ところが地域によっては上履きが無いというケースもあるそう。
例えば兵庫県神戸市はかつで外国人居留地があった関係で土足文化に馴染み深かった。
さらに神戸の街は坂道が多く平地が少ないために昇降口のスペースを確保するのが難しいという地政学的な問題も。
また、沖縄県の一部では道路の舗装が進んで靴が汚れにくくなったから、上履きなどの学用品購入にかかる家計の負担を少しでも軽くするためという目的で上履きを廃止している学校もあるとのこと。
結論
というわけで、
「なんで学校で上履きを履くの?」は、
「出入り口を一つにするため」
でした。
解説してくれたのは
元京都精華大学 特任教授の中西宏次先生。
中西 宏次 NAKANISHI Hirotsugu
研究者番号 50554333
所属 (現在) 2020年度: 京都精華大学, 人文学部, 教授
所属 (過去の研究課題情報に基づく) *注記 2018年度: 京都精華大学, 人文学部, 特別研究員
2012年度 – 2017年度: 京都精華大学, 人文学部, 教授
2011年度: 京都精華大学, 教授
2009年度 – 2010年度: 京都精華大学, 人文学部, 教授
研究分野
教育社会学 / 社会学
(KAKEN HPより)
京都精華大学(きょうとせいかだいがく、英語: Kyoto Seika University)は、京都府京都市左京区岩倉木野町137に本部を置く日本の私立大学である。1979年に設置された。大学の略称は精華大、精華など。
大学全体
1968年(昭和43年)に現在の所在地に開設された、京都精華短期大学を前身とする4年制大学。現在は、芸術学部・デザイン学部・マンガ学部・ポピュラーカルチャー学部・人文学部、芸術研究科・デザイン研究科・マンガ研究科・人文学研究科の5学部・4研究科を構える。
2014年から漫画家の竹宮惠子が学長に就任。
2017年9月23日、理事会において次期学長にマリ共和国出身のウスビ・サコ人文学部教授が選任承認された。2018年4月1日に就任。
建学の精神(校訓・理念・学是)
教育理念は、「自由自治」「人間尊重」。この理念はかつてであれば、大学主催の学園祭「木野祭」(平成28年は「龍潜祭」)に加え、学生主催の学園祭「五月祭」が開催されるといったかたちで実践されていた。
しかしながら、学生団体(学生自治会・学友会・学友会所属団体・学祭実行委員会)の、長年にわたる決算書偽造による自治会費横領や、幹事による自転車の窃盗など、相次ぐ不祥事により、団体の解散や学祭の規模縮小が行われ、特に学生間において「自由自治」は形骸化している。 また、2016年10月に学友会所属団体において学生自治会費の不適正な決算が判明した。現在は学生自治会に代わる組織は存在しない。学園祭は大学祭実行委員会が組織され、運営にあたる。
また、大学設置当初より、公式な校歌・校章を制定していない(大学敷地内や式典内での、国旗の掲揚や国歌の斉唱などを行っていない)。
大学の理念を反映した講演会も数多く行われており、2000年にはダライ・ラマ14世を日本の非宗教団体として初めて招聘した[1]。
教育および研究
日本で初めてのマンガ学部を設置した大学として知られている。とりわけ2000年以降、文部科学省の「私立大学学術研究高度化推進事業(オープンリサーチセンター)」[2] として「京都精華大学表現研究機構」[3]内にマンガ文化研究所を、また京都市と共同運営するかたちで「京都国際マンガミュージアム」を開設・運営するなど、文化・表現メディアとしてのマンガの研究・収集・保管・展示に力を入れている。さらに、平成27年度から文化庁より委託を受け「メディア芸術連携促進事業」を実施し、メディア芸術分野の文化資源の運用・展開に参画している[4]。
また2004年には、教育活動の発展と向上を目的に、学内に教育推進センターを設置した。ここでは、ISO14001認証を受けているキャンパスを活用した、新しい教育システムの研究や、EMS構築支援活動を通しての「自立した学習者」の育成プログラム、そのほか地元・京都の伝統産業や地場産業と連携した教育実践プログラムなどが提供されている。 なお、これらの活動は、複数回にわたって文部科学省の大学教育改革支援事業である「特色ある大学教育支援プログラム(特色GP)」に採択されている。
(Wikipediaより)
今回も最後まで読んでくれてありがとう。
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