今回は、2021年3月12日金 チコちゃんに叱られる!「▽鬼ってなに▽ジャンプのK点とは▽ハムスターの謎」の番組内容を紹介。
スキージャンプのK点ってなに?
たしかに、改めて聞かれるとわからないですよね。
超えたらすごい点?
スキージャンプのK点ってなに?
本日の2つめ目の話題。
チコちゃん「ねぇねぇ岡村、この中で一番、高い所が好きそうなステキな大人ってだーれ?」
岡村さん立候補して、回答者に。
高いところから、スキージャンプの話題。
スキージャンプのVTRをみせて、K点越えの映像が流れます。
チコちゃん「スキージャンプのK点ってなに?」
岡村さんは、「K点を越えないとジャンプとは見なさない。」という答え。
正解に至らず、叱られちゃいました。
指原さんにもきいてみると、
指原さん「A点、B点、C点、、、、実はK点の他にも全部ある。」という答え。
結局、チコちゃんの答えは、「昔は「極限点」だったけど今は「建築基準点」になりました。」
昔は「極限点」だったけど今は「建築基準点」になりました
解説してくれたのは、全日本スキー連盟理事の原田雅彦さん。
K点とは踏み切り台から斜面の約120m先のポイント。
スキージャンプはジャンプ台の大きさで種目が分かれています。
このK点を有名にしたのが1994年開催のリレハンメルオリンピック・スキージャンプ団体。
1人目の西方選手がK点を大きく越える135mの大ジャンプ。
続く岡部選手も133m。
さらに葛西選手も120mとK点連発。
この時点で日本チームは2位のドイツを大きく引き離してトップ。
最後の4人目のジャンパーで前年の世界選手権を優勝していた原田選手が最低でも105mで金メダル。
しかし、失敗で結果は97.50m。
銀メダルに終わりました。
1998年の長野オリンピックでは原田選手がK点を大きく越える137mの大ジャンプで日本チームに貢献。
結果は金メダル獲得。
そんな勝負の分かれ目になるK点。
元々ドイツ語の、kritischer Punkt(クリティッシャー・プンクト)という語。
これ以上飛ぶと危険である極限点という意味。
つまりK点越えは危険を伴う程の大ジャンプ。
ジャンプ台はK点を境にして傾斜が緩やかになるように設計。
K点を越えて来ると着地が難しくなって転倒のリスクがあがります。
つまり、K点を越えるのは命懸け。
通常、冬場に行われるスキージャンプのジャンプ台は雪が積もって白く見えていてその恐ろしさはは分かりにくい。
夏に行われるスキージャンプではその怖さが鮮明に。
実はラージヒルのスタート地点の高さというのは東京タワーのメインデッキ(138m地点)とほぼ同じ。
東京タワーから滑り降りていくイメージ。
時速100km以上のスピードで滑空して地面に着地。
K点越えのジャンプとは人が命綱なしで東京タワーのメインデッキから200m先にある地点に向かって猛スピードで落ちていくイメージ。
ところがある時を境にこのK点越えジャンプが競技において連発する事態に。
その大きな要因がV字飛行。
1960年代後半は板をキッチリ揃えて飛ぶクラシックスタイルが主流。
ラージヒルのK点を越える事はまずなかった時代。
それが1990年代に入ると板をV字にして飛ぶ現在のスタイルが登場。
スキー板を広げる事で風を受ける面積が広がります。
その結果選手を上に押し上げる力が大きくなり、飛距離は大幅に伸びました。
それからは選手の滑空技術や着地技術が続々と進化。
このため、K点越えのジャンプでも危険性はかなり減りました。
そこで、2004年には極限点という意味のK点が改定。
そして、元々K点が意味していた「これ以上飛んだら危険」というポイントが約140m付近に移動。
そのポイントを「ヒルサイズ」とよぶことに。
すなわち、そのジャンプ台において「設計上何mまで安全に飛べるか?」の基準がヒルサイズ。
ヒルサイズ越えのジャンプは、限界を超えた大ジャンプという意味に。
そしてK点は、Konstruktionspunkt(=建築基準点)に。
今ではヒルサイズの方が使われるので、K点はあまり使われなくなりました。
結論
というわけで、
「スキージャンプのK点ってなに?」は、
「昔は「極限点」だったけど今は「建築基準点」になりました」
でした。
解説してくれたのは
全日本スキー連盟理事の原田雅彦さん。
原田 雅彦(はらだ まさひこ、1968年5月9日 – )は、北海道上川郡上川町出身、雪印乳業所属の元スキージャンプ選手、指導者、解説者。血液型A型。1998年長野オリンピックスキージャンプ団体金メダリスト。1993年及び1997年ノルディックスキー世界選手権スキージャンプ個人金メダリスト。
経歴
小学校3年生時からスキージャンプを始め、上川中学校時代に全国中学選手権で2度優勝。東海大学付属第四高等学校(現東海大学付属札幌高等学校)でインターハイ優勝。卒業後、1987年に雪印乳業入社。
日本代表入りし、1990年代以降、日本を代表するスキージャンプ選手となる。1991年に世界選手権に初出場。1992年アルベールビルオリンピック、1994年リレハンメルオリンピック、1998年長野オリンピック、2002年ソルトレークシティオリンピック、2006年トリノオリンピックの計5回の冬季オリンピックに出場。オリンピック、世界選手権を通して9個のメダルを獲得しているが、これは日本人最多である。
2006年3月20日に引退を表明し、3月25日の伊藤杯シーズンファイナル大倉山ナイタージャンプ大会を最後に現役を引退した。
現役引退後も引き続き会社に残り、雪印メグミルクスキー部コーチに就任。以降スキージャンプ中継の解説者も務めている。
2014年4月、同スキー部の斉藤浩哉前監督の退任を受けて監督に就任[1]。
2015年10月、全日本スキー連盟理事に就任[2][3]。
(Wikipediaより)
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