今回は、2018年9月7日金曜日放送、「チコちゃんに叱られる!」のお話。
「蚊はなぜ血を吸う?」だよ!
たしか、蚊は、メスしか血を吸わないんだよね。
やっぱり、産卵と関係あるのかな?
蚊はなぜ血を吸う?
チコちゃん「この中で虫も殺せない優しい大人ってだーれ?」っということで、岡村さんの指名で足立さんが回答者に。
チコちゃん「夏で嫌な事ってなーに?」
足立さん「宿題が嫌だった。」
チコちゃんは、なんか違う感じの態度。
チコちゃん「私の質問、覚えてる?」
足立さん「虫、そうだ、蚊だ!」
というやり取りのあと、キーワード「血を吸う」がでてきました。
そこで、チコちゃんからの質問、「なんで蚊は「血」を吸うの?」
足立さん「求愛行動?」
ということでしたが、叱られちゃいました。
番組では、岡村さんが、蚊はメスしか血を吸わないこと、子供を産むからと正解。
チコっちゃいました。
チコちゃん「つまんねーヤツだなぁ。」
岡村「当たった!?」
という流れで、チコちゃんの答えは、「元気な子どもを産むため」
元気な子供を産むため
解説してくれたのは東京慈恵会医科大学で蚊の生態を研究している高柳咲乃先生。
蚊と言えば血を吸う厄介者。
しかし、実は蚊の主食は花の蜜、果実の汁、樹液など。
蚊はこれらの食事だけで十分に生きていけるとのこと。
血を吸う蚊はメスのみ。
卵を産むために卵巣を発達させる必要があります。
その栄養源となるたんぱく質を、人間や動物などの血から吸血。
産卵のため卵巣を発達させたい、栄養源のタンパク質を血から得ている
血を吸うのはメスの蚊だけで卵巣を成長させるため
髙柳先生は、自分の研究の為に蚊に自らの血を吸わせるそうです。
200~250か所も刺されるらしい。
蚊の寿命は1か月ほどとのこと。
一人舞台 蚊の一生 Life is…
木村多江さんの朗読劇。
蚊の一生を説明。
交尾は一生に一度。
オスの蚊と出会って、交尾し、赤ちゃんをうむために、人間の血をすうということを熱演されてました。
蚊が媒介する病気で亡くなっている人の数は年間約83万人とのこと。
まとめ
というわけで、
「蚊が血を吸うのは、元気な子どもを産むため」
でした。
解説してくれたのは
解説してくれたのは東京慈恵会医科大学で蚊の生態を研究している高柳咲乃先生。
高柳咲乃先生
東京慈恵会医科大学熱帯医学講座
助教 高柳 咲乃 SAKINO TAKAYANAGI
生物はどのように進化し、環境に適応していくのかということに興味があります。生物の逞しさ、狡猾さ、美しさの謎の一端でも解き明かすことができればと思います。どうぞよろしくお願いします。
◆略歴
平成19年 東北大学理学部 卒業
平成21年 東北大学大学院生命科学研究科 修士課程修了
平成24年 東北大学大学院生命科学研究科 博士課程修了
平成24年 東北大学大学院生命科学研究科 研究員
平成28年 東京慈恵会医科大学 熱帯医学講座 研究員
平成30年 現職
◆その他
趣味は読書と旅行です。旅先でのご飯が大好きです。
(大学HPより)
東京慈恵会医科大学(とうきょうじけいかいいかだいがく、英語: The Jikei University School of Medicine)は、東京都港区西新橋3-25-8に本部を置く日本の私立大学である。
1921年に設置された。
大学の略称は慈恵医大(じけいいだい)・慈恵(じけい)・慈大(じだい)。
概観
大学全体
1881年(明治14年)に創立された成医会講習所が起源。1891年(明治24年)、昭憲皇太后の意向を受け、東京慈恵医院医学校と改称された。その後、1903年(明治36年)、専門学校令を受けて日本初の私立医学専門学校として東京慈恵医院医学専門学校となる。さらに、1921年(大正10年)に大学に昇格し東京慈恵会医科大学となった。これは大学令に基づく日本の私立の旧制大学の中で最も古い単科の医科大学である。1991年(平成3年)、医学部看護学科の設置が日本で初めて認可され、医学部の下に医学科と看護学科を設置し、医師・看護師の育成を行っている。また、1956年(昭和31年)に大学院医学研究科博士課程を設置、2009年(平成21年)には大学院医学研究科看護学専攻修士課程を開校した。開学以来130年間の卒業生は12,000人を超え、全国各地で医療を社会に提供している。戦前に制定された旧制医科大学であり、私立医大御三家と一般的に呼ばれる(他に慶應義塾大学医学部、日本医科大学)。
沿革
略歴
東京慈恵会医科大学の起源は、高木兼寛によって1881年(明治14年)5月1日に創立された医術開業試験の受験予備校(乙種医学校)『成医会講習所』である[1]。高木は1875年(明治8年)から5年間、海軍生徒として英国セント・トーマス病院医学校(現: ロンドン大学群キングス・カレッジ・ロンドン医学部)に学び、このように権威のある医学校を日本につくりたいと思っていた。高木は帰国後、廃止された慶應義塾医学所に関わっていた松山棟庵とともに1881年(明治14年)1月、成医会なる研究団体を設立し、次いで同5月にこの成医会講習所を設立している。
その後、高木は戸塚文海とともに、1882年(明治15年)、有志共立東京病院なる慈善病院を発足させている。この病院の設立趣意には「貧乏であるために治療の時期を失したり、手を施すことなく、いたずらに苦しみにさらされている者を救うこと」にあるとしている。このような趣意も、高木が英国留学中に受けた人道主義や博愛主義の強い影響による。同病院の資金は有志の拠金によるものであり、有志共立という名はそのためであった。病院総長としては有栖川威仁親王を戴き、また大日本帝国海軍軍医団の強い支援があった。
有志共立東京病院は、こうした慈善病院のほかに医学教育の場としても重要な役割を果たし、成医会講習所や海軍軍医学校の実習病院の役割を担った。これも、英国で経験した慈善病院と医学校の関係を東京に実現しようとしたものである。1887年(明治20年)、同病院は皇后を総裁に迎え、その名も東京慈恵医院と改め、経費は主に皇室資金によることになった。成医会講習所も成医学校に、次いで東京慈恵医院医学校に改称され、同病院構内(芝区愛宕町二丁目、現港区西新橋三丁目)に移転した。
有志共立東京病院時代の特筆すべき事業の一つに看護婦教育所の設立がある。英国留学時代、セント・トーマス病院に付設されていたナイチンゲール看護学校を目撃した高木は、日本の近代看護教育の導入にも極めて積極的であった。彼は1884年(明治17年)10月、米国女性宣教師のリードを招き看護婦教育を実践した。これが日本での近代看護教育の始まりである。第一回生はわずか5名であったが、総裁皇后の臨席を得て卒業式が行われた。現在の慈恵看護専門学校及び医学部看護学科、大学院医学研究科看護学専攻修士課程はこの流れを汲むものである。
1907年(明治40年)、有栖川宮威仁親王妃慰子を総裁とする社団法人東京慈恵会が設立され、東京慈恵医院の経済的支援をすることになったので、東京慈恵医院は東京慈恵会医院と改称され、またすでに医学専門学校に昇格していた東京慈恵医院医学専門学校は、1908年(明治41年)に東京慈恵会医院医学専門学校と改められた。
1921年(大正10年)、大学令の公布を機会に東京慈恵会医院医学専門学校は東京慈恵会医科大学に昇格した。そのとき、高木家私有の東京病院が大学に寄付されたため、医科大学として附属病院を持つことになった。1952年(昭和27年)に学制改革による新制の大学となり、1956年(昭和31年)に大学院医学研究科博士課程、1992年(平成4年)に医学看護学科、2009年(平成21年)に看護学専攻修士課程が設置された。
(Wikipediaより)
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