今回は、2021年2月12日金 チコちゃんに叱られる!「チコちゃんに叱られる!▽渡り鳥のナゾ▽えくぼはなぜできる▽柔道の黒帯とは▽」の番組内容を紹介。
なんで柔道が強い人は黒帯なの?
たしかに考えたことなかったですが、黒帯は一番上ですね。
なんでだろう?
なんで柔道が強い人は黒帯なの?
本日の4つめ目の話題。
チコちゃん「ねぇねぇ岡村、この中で一番、敵に回したら怖いステキな大人ってだーれ?」
今回、先発していない岡村さんが立候補して回答者に。
柔道の話題。
チコちゃん「なんで柔道が強い人は黒帯なの?」
岡村さんは、黒が一番染めにくい色で難しいところから、柔道の黒帯取得も難しいのでという回答。
チコちゃん「ボーっと生きてんじゃねーよ!」
橋本さんは、全ての色を混ぜると黒だから、全てを兼ね備えた最強という回答。
チコちゃんの答えは、「白の真逆だから。」
白の真逆だから
解説は講道館資料部の津村弘三さん。
黒という色を選んだ理由についてハッキリとした記録は残っていないそう。
柔道の創始者である嘉納治五郎の意見。
白い柔道着に映える色として真逆で目立つのが黒だからというのが有力な説。
ネットでは、白帯を使いこむにつれて自然と汚れていって黒ずんでいき、それが強さの象徴だったからなんて説も。
そもそもそれが、今回の問題になっているよう。
しかし、津村さんはこの意見を否定。
嘉納治五郎先生は「柔道着の手入れはしっかりしなさい。柔道着は清潔に保ちなさい。」と厳しく指導していたから。
そこで、汚れてが溜まって行って黒くなるというのは嘉納治五郎の指導から考えられないとのこと。
柔道着の成り立ちについて深堀り
柔道のルーツは古流柔術。
江戸時代には100以上の流派が存在。
その中でも天神真楊流、起倒流を学んでいた嘉納治五郎。
これら2つの流派を元にして、また、他の流派もうまく取り込んで独自の理論を確立。
そして生まれたのが明治15年(1882年)の講道館。
そしてこれと同時に柔道が誕生。
明治20年になると嘉納治五郎が独自に取り入れたのが段位制度。
修行の成果に応じて初段から十段以上まで進んでいくという昇段システム。
これは身近な所に次の目標を設定する事で修行継続のモチベーションにするという工夫だったそう。
元々、古流柔術にも、目録、免許、皆伝といった大まかな段階がありました。
天神真楊流では稽古着の色で階級を区別していました。
初心者
白の十字刺しにあさぎ色
目録
白、襟はあさぎ色、紺の十字刺し
免許
白に紺の十字刺し
実際に嘉納先生も免許の稽古着を着ていました。
ところが当時の技術で稽古着の色を変えると相当なお金と手間がかかりました。
柔道は誰でも気軽に始められなければいけないという嘉納治五郎の信念から、
「柔道着は一番シンプルで清潔感のある白」というルールが生まれる事に。
そして柔道着の色で段位を表せられなくなってしまったので、ここで帯の色を変えることに。
この時に白い柔道着に目立つように黒色に。
黒帯の誕生は最も古いスポーツ雑誌の一つである昭和14年(1939)年発行の「月刊 柔道」にその詳細が記されているそう。
黒帯は講道館の発明であるという記述が。
ちなみに帯の色は白帯→茶帯→黒帯と昇級するにつれて変化。
さらに黒帯の上には六段から八段が紅白帯、九段から十段以上を紅帯に。
紅帯は、1976年のモントリオールオリンピック男子無差別級の金メダリストで現在の講道館館長である上村春樹九段など
紅帯の取得者は約150人で現在の最高段位となっている十段の取得者はわずかに15人だそう。
そこで紅白帯、紅帯所持者に実際に投げてもらいたいというリクエストを出す取材スタッフ。
そこで柔道着に着替えて現れたのは何と解説役だった津村さん。
津村さんは実は紅白帯の所持者で六段。
そして投げら役は、黒帯所持者のADさん。
しかしADさんは、実は空手の黒帯。
体落としでしっかり投げられて取材終了。
結論
というわけで、
「なんで柔道が強い人は黒帯なの?」は、
「白の真逆だから」
でした。
解説してくれたのは
講道館資料部の津村弘三さん。
講道館
公益財団法人講道館(こうえきざいだんほうじんこうどうかん)とは、柔道家であり、教育家でもある嘉納治五郎が興した柔道の総本山。
概要
1882年(明治15年)5月に嘉納治五郎によって創設され、1909年(明治42年)に財団法人となり、段位の発行、大会開催、講習会、機関誌の発行、書籍の刊行など柔道普及のための諸活動を行っている。2012年(平成24年)4月1日より公益財団法人に移行した。本館5階に全日本柔道連盟事務局が置かれている。
歴史
最初の道場は東京下谷北稲荷町の永昌寺であるが、その後、南神保町、上二番町、富士見町、本郷真砂町、下富坂などに移転している。のちに所在地は東京都文京区春日1-16-30に。また大阪にも支部がある(「講道館大阪国際柔道センター」大阪市城東区永田4-15-11)。
体の弱かった嘉納治五郎は投技に優れた天神真楊流柔術を福田八之助、磯正智に学び、後に捨身技中心の起倒流柔道を飯久保恒年に学んだ。天神真楊流と起倒流に存在した乱捕技を整理、体系化を図り、「道」は根本で「術」はその応用である、という考えから「術」ではなく「道」を講ずるところとして、名称を「柔術」から「柔道」と改めた。
柔術の技術伝授の制度をあらためて段級制を敷いたが、段位制は囲碁、将棋から取り入れたとされる。柔道に関する研究は、嘉納治五郎が1932(昭和7)年から講道館医事研究会を組織し医学的課題にも取り組んだ。戦後、研究会は1948(昭和23)年に講道館柔道科学研究会と改称し科学的研究に着手した。研究の成果は講道館柔道科学研究会紀要として刊行され、2009年には12輯目が刊行されている。
世界の柔道の統括団体である国際柔道連盟も、規約第1条で、「嘉納治五郎によって創設された心身の教育システムであり、かつオリンピック種目としても存在するものを柔道と認める」と規定している。初代国際柔道連盟会長は嘉納履正であった。また、嘉納行光第4代館長はアジア柔道連盟会長を務めた。
独自の伝統行事として、館内では、1月に寒稽古を7月に暑中稽古をそれぞれ10日間行っている。2.3.4.5.7.8.9.11.12月は、月例の月次(つきなみ)試合、6.10月には紅白試合が行われている。夏季は夏期講習会二部、一部(形)、女子柔道、少年柔道などが集中して開催されている。
試合については、4月の全日本柔道選手権大会、10月の全日本柔道「形」競技大会、11月の講道館杯全日本柔道体重別選手権大会、12月の嘉納治五郎杯東京国際柔道大会(のちのグランドスラム・東京)などが全日本柔道連盟との共催で行われている。
講道館の初段に合格すると地方在住者も門人となるが、6段以上の高段者に限っては講道館は名簿を発行している。
戦前・戦中は剣道の修道学院、有信館、空手の松濤館、大日本武徳会の武道専門学校(武専)とともに武道総本山として知られた。GHQにより占領期には制約を受けている。
(Wikipediaより)
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