今回は、2021年7月16日金 チコちゃんに叱られる!「▽運動神経とは▽海水の謎▽ボクシングのリング」の番組内容を紹介。
なんでボクシングのリングは四角いのにリング(輪)って呼ぶの?
確かにリングは輪の意味なのに、四角ですね。
いったいなぜ?
なんでボクシングのリングは四角いのにリング(輪)って呼ぶの?
本日の4つめ目の話題。
チコちゃん「ねぇねぇ岡村、この中で一番、スポーツ観戦が好きなステキな大人ってだーれ?」
今日は先発していない岡村さんが立候補して回答者に。
ボクシングからリングの話題に。
チコちゃん「なんでボクシングのリングは四角いのにリング(輪)って呼ぶの?」
岡村さんは、「ボクシングのリングの語源がチャンピオンに与えられるチャンピリングから来ているから。」といった趣旨の回答。
正解に至らず叱られちゃいました。
近藤さんにもきいてみると、「リングの下がスプリングになっているから、スプリングのリングから。」といった趣旨の回答。
こちらも不正解。
そこで、ガッツ石松さんの歌を歌うはなわさんにも効いてみると、
はなわさん「東西南北の包囲を表すために四角。」
出張用チコちゃんに叱られちゃいました。
というわけでチコちゃんの答えは、「丸だとロープが張りづらいから」
丸だとロープが張りづらいから
解説してくれたのは、東海大学の松浪稔教授。
ボクシングの歴史をさかのぼってみます。
その始まりは紀元前の時代。
紀元前17~16世紀ごろの壁画には殴り合う少年たちの姿が。
17世紀のイギリスになると、ボクシングが大ブーム。
当時のボクシングは現在のボクシングとは異なり、主に賭けの対象。
見物人は勝者を予想してお金を賭けるというギャンブル。
選手の方も中には貴族からファイトマネーや賞金をもらって生計を立てる選手も存在。
そして当時のボクシングルールというのは基本的に
ルール無し、
グローブ無し、
レフェリー無し
目つぶし、
首絞め、
頭突き
となんでもOK
さらに当時は今のようなロープも張られていませんでした。
自分が賭けた選手が逃げ出さないように選手の周りを囲っていました。
この時の取り囲む姿が輪っかのようだったので「リング」と呼ばれるように。
ロープが四角く張られるようになった背景
現代ボクシングの父と呼ばれるジャック・ブロートン。
ジャック・ブロートンは18世紀にイギリスで活躍。
イギリス王家も認めた最強ボクサー。
そしてこのジャック・ブロートンのある試合がロープを四角く張るようになった原因。
その物語を伝説の男にちなんで、はなわさんの曲に乗せて解説。
「伝説の男 ~ビバ・ブロートン~」
ボクシングのルールが何度もアリだった時代に防衛戦に臨んだ王者ブロートン。
相手をリング上の不慮の事故で殺してしまう事に。
そんな悲劇に見舞われたブロートン。
ボクシングで死者が出ないようにと新ルールを設置して安全なボクシングを標榜。
それがブロートンズ・ルールと呼ばれるもの。
ベルトより下の位置への打撃は禁止
ダウンした相手への攻撃は禁止
30秒以内に立てなければ負け
といった安全性向上の為のルールの数々。
ところがこの取り組みに反して、金を賭けている観客は勝敗に関してシビア。
時として取り囲む円形を崩してまで試合に介入して選手を妨害。
そこでブロートンは「ロープでリングを作る」というルールを新設。
その際に円形にロープを張ろうとすると杭が沢山必要。
三角形に張ると選手間に不公平感が。
最終的に辿りついたのが四角形。
一番少ない柱でロープが張れて、選手間の条件も平等となる四角いリングが誕生。
(注釈)リングが四角い理由については諸説あります。
結論
というわけで、
「なんでボクシングのリングは四角いのにリング(輪)って呼ぶの?」は、
「丸だとロープが張りづらいから」
でした。
解説してくれたのは
東海大学の松浪稔教授
松浪 稔
マツナミ ミノル
教授
学位:博士(体育科学)
身体の近代化 オリンピック研究 日本スポーツ文化史 スポーツ映像史
歴史や人類学の視覚から文化としてのスポーツを研究している。専門としているスポーツ史、スポーツ人類学、スポーツ文化論は、現代社会におけるスポーツの意味や役割を問う研究領域である。これまで、日本近代以降の身体へのまなざしの歴史、スポーツやオリンピックが映し出す現代社会を考える研究などを行ってきた。現在では、平和教育としてのオリンピックについて、スポーツ映像からみるスポーツの歴史などをテーマとし、人間とスポーツの関りについて研究している。
(大学HPより)
東海大学(とうかいだいがく、英語: Tokai University、公用語表記: 東海大学)は、東京都渋谷区富ヶ谷2丁目28番4号に本部を置く日本の私立大学である。1946年に設置された。大学の略称は東海(とうかい)、東海大(とうかいだい)。
大学全体
創立者の松前重義
1942年12月に創立した財団法人国防理工学園が、国防理工科大学の設立構想の一環として、旧・専門学校令により、1943年4月に航空科学専門学校を開設。第二次世界大戦の終戦日の1945年8月15日付で同一法人内の電波科学専門学校と合併[注釈 1]し東海専門学校となり、同年10月に東海科学専門学校と改称。1946年に旧・大学令によって、旧制東海大学に昇格。学制改革に伴い、1950年4月に新制東海大学となった。
創立者は、逓信省(現・総務省・NTT等)工務局長で、後に逓信院の総裁となる工学博士・松前重義。松前は、「戦後資源の乏しい日本の発展には、科学技術の開発と平和利用が必要だ」と述べている。東海大学は、創立者の精神を受け継ぎ、明日の歴史を担う強い使命感と豊かな人間性をもった人材を育てることにより、「調和のとれた文明社会を建設することのできる人材を育成する」という理想を高く掲げている。
東海大学は当初、静岡県静岡市清水区三保に本部を、東京都内に分校を設置していた。しかし、戦後の劣悪な社会的・経済的な混乱により、一時は学園閉鎖の危機に瀕する。その窮状を脱するため1955年、東京都の学校法人名教学園と合併。これを機に東京都渋谷区富ヶ谷に本部を置く大学となった。2008年4月には、同一法人内の九州東海大学および北海道東海大学、東海大学短期大学部高輪キャンパスを改組・再編して、東海大学本体に統合させた。
全国にキャンパスを展開する日本有数の総合大学である。
2018年度の志願者数は52,022人で日本の私立大学[3] の中で第15位である。
(Wikipediaより)
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