今回は、チコちゃんに叱られる! ▽薬はなぜ薬局?▽木の枝の謎▽恥ずかしいとは 初回放送日:2024年5月31日の番組内容を紹介。
なんで木の枝ってグニャグニャしているの?
なんで木の枝ってグニャグニャしているの?
チコちゃん「ねぇねぇ岡村、この中で一番、植物が好きなステキな大人ってだーれ?」
チコちゃん「なんで木の枝ってグニャグニャしているの?」
チコちゃんの答えは、「まっすぐ行ければ楽だけど日の光当たるオーディションで脱落者が続出しているから。」
まっすぐ行ければ楽だけど日の光当たるオーディションで脱落者が続出しているから
木の枝に同じ形がない理由:木が大きく成長するために生き残りをかけた枝たちの戦いの結果
樹木などの多くの植物は太陽の光でエネルギーを作る光合成を行っています。
これは葉の表面に太陽光が当たる事でエネルギーを吸収、
空気中の二酸化炭素と根から吸収した水を使って養分を作ります。
これは、木の生命活動の大切なもの。
このように、木の成長に太陽光は必要不可欠です。
そこで木はより多くの葉を茂らせてより効率的に光合成を行おうとしています。
そのためには枝分かれを繰り返して葉をつける枝の数を増やします。
しかし、自分の成長のために葉をたくさん付ければ付けるほど、その葉によって日陰が生まれます。
そうすると、光が当たらない葉が生じるという問題が。
そうなると日陰になった部分の枝には栄養が行き届かなくなります。
その結果その枝は枯れてなくなります。
枝がグニャグニャ曲がっていく過程
木の枝が光合成のために葉を付ける
葉が太陽の光を受けて成長上に伸びながら枝分かれで葉を付ける
さらに枝分かれが起こって多くの葉を付ける
日陰の枝の葉は枯れて落ちます。
「枝が光を求めてグニャグニャ曲がっているのでは?」という考えは不正解。
木の枝というのは基本的に一度伸びた後は自ら方向を変えられない性質があるとのこと。
伸びた枝はその姿のまま光合成を続けて成長するか、光合成が出来ずに枯れ落ちるかのどちらか。
木は日が良く当たる方の枝により多くの栄養を送る方が成長します。
効率がわるい日陰の枝はどんどん切り捨てられていきます。
枝分かれの生存競争の結果、日陰の枝が枯れて失われていくので、結果的にグニャグニャ曲がっているように見えるとのこと。
結論
というわけで、
「なんで木の枝ってグニャグニャしているの?」は、
「まっすぐ行ければ楽だけど日の光当たるオーディションで脱落者が続出しているから」
でした。
解説してくれたのは
早稲田大学の園池公毅教授。
所属
教育・総合科学学術院 教育学部
職名
教授
学位
理学博士 ( 東京大学 )
ホームページ
http://www.photosynthesis.jp/
プロフィール
昭和36年東京生まれ。東京大学教養学部卒。東京大学大学院理学系研究科博士課程修了。理学博士。理化学研究所特別研究生、東京大学理学部助手、東京大学新領域創成科学研究科准教授を経て、早稲田大学教育・総合科学学術院教授。専門は植物生理学、特に光合成。
植物の光合成について主に生理学の視点から研究を進めるとともに、サイト「光合成の森」などにより、一般向けに光合成の紹介を行なっている。また、和歌の披講や装束の衣紋といった伝統文化の継承にも携わり、新年の宮中行事の一つである歌会始の儀の披講所役を約40年にわたって務めている。
経歴
2009年09月 – 継続中 早稲田大学 教育・総合科学学術院 教授
1983年07月 – 継続中 宮内庁 式部職 嘱託
1999年04月 – 2009年09月 東京大学 大学院新領域創成科学研究科 助教授(准教授)
1990年04月 – 1999年03月 東京大学 理学部 助手
1989年04月 – 1990年03月 理化学研究所 太陽光エネルギーグループ 特別研究生
学歴
1985年04月 – 1998年03月 東京大学 大学院理学系研究科 相関理化学専攻博士課程
1983年04月 – 1985年03月 東京大学 大学院理学系研究科 相関理化学専攻修士課程
1979年04月 – 1983年03月 東京大学 教養学部 基礎科学科
(大学HPより)
早稲田大学(わせだだいがく、英語: Waseda University)は、東京都新宿区戸塚町一丁目104番地(新宿区西早稲田一丁目6番1号)に本部を置く日本の私立大学。1882年創立、1920年大学設置。大学の略称は早大(そうだい)。
概説
大学全体
大隈重信が明治十四年の政変による下野後に設立した東京専門学校を前身とする四年制の大学である[1]。1920年(大正9年)に日本の私立大学では慶應義塾大学などと共に最も古い段階で大学令に基づく大学となった(詳しくは旧制大学参照)。2019年時点で、10の学術院のもと13学部・25研究科(大学院)を設置している[2]。国際交流が盛んで、特にアジアからの外国人留学生が多い。
大隈重信が明治の代表的な政治家の一人であり、イギリス流の政治経済学を中心とする大学をモデルに設計されていることから政治経済学部を看板学部とし、政治経済学部を中心に政界・財界に多くの人材を輩出しているのをはじめとして、出版・新聞・文学などの分野でも多くの卒業生が活躍している。イギリスの教育専門誌『タイムズ・ハイアー・エデュケーション』による2017年の日本版ランキングでは、私大1位に認定された[3]。
早稲田大学は、東京専門学校時代から、文部省「特別認可学校規則」や専門学校令の特例適用、大学令による私立大学として最初期の認可などを受けてきた。政治学・法律学・文学・商学・理工学・教育学・芸術・スポーツなど様々な分野で、近代日本国家の教育・研究分野の形成をリードしてきた学校であり、上述の慶大と共に「私学の雄」と並び称され、私立大学の最高峰に位置付けられることが多い[4]。
同窓会は「稲門会」(とうもんかい)と称され、 早稲田大学校友会に登録している「登録稲門会」に限っても1,300を超える団体が存在し、国内有数の学閥となっている。
大隈重信像(朝倉文夫作)。登台した学生は退学の内規あり。
大隈重信像(朝倉文夫作)。登台した学生は退学の内規あり。
「早稲田大学教旨」の碑
「早稲田大学教旨」の碑
建学の精神
1913年(大正2年)当時の総長大隈重信は、前身となる東京専門学校の創立30周年記念祝典において、早稲田大学教旨を宣言した。
「学問の独立」「学問の活用」「模範国民の造就」を基本理念としている。
早稲田大学教旨は、高田早苗、坪内逍遥、天野為之、市島謙吉、浮田和民、松平康国などが草案を作成し、大隈重信が校閲のうえ発表した。1937年(昭和12年)に教旨の碑文が早稲田大学正門前に設置された[5]。碑文の刻字は、前島密が1915年(大正4年)に揮毫した自筆が元であり、原本は大学に保存されている[6]。
戦後(1949年)、「立憲帝国の忠良なる臣民として」の14文字は「主権在民を謳った新憲法にふさわしくない」[7]として教旨から削除されたが、正門前の「早稲田大学教旨」の碑に刻まれた語句については「思想の変遷を知る歴史的文書としてそのままに保存することがかえって記念碑の趣旨に副う」[7]として削られることはなかった。現在、石碑は正門の外側左に移設され、大学の外から誰でも自由に見られるようになっている[8]。
建学の祖グイド・フルベッキ
『早稲田大学百年史』に「最も直接的な建学の基礎的感化を与えたのはグイド・フルベッキである。フルベッキがなかったら、早稲田大学はなく、建っても、勿論、ひどく形式、精神の異なったものとなったであろう」という記述がある。大隈重信は長崎の佐賀藩藩校「致遠館」でフルベッキに英語を習った。教材は新約聖書、アメリカ独立宣言などであった。「アメリカ独立宣言を起草したジェファーソンは、合衆国に民主主義の政治を実行するためには青年を教育することが必要としてバージニア大学を創設した。ジェファーソンと同じ考えで私は早稲田大学を創設した」と述べ、「フルベッキなくして大隈なし、大隈なくして早稲田大学なし」としてフルベッキを建学の祖と称えている[9][10][11]。
大学名の由来
1890年頃の東京専門学校
1890年頃の東京専門学校
早稲田大学は、1882年(明治15年)10月21日に創設した「東京専門学校」を前身とする。当初は、創立者・大隈重信の別邸が東京府南豊島郡早稲田村に、また、校舎が同郡戸塚村にあったことから、関係者には「早稲田学校」「戸塚学校」と呼ばれていたが、最終的には「東京専門学校」と名付けられた。1892年頃には、専門学校の別名として「早稲田学校」と呼ばれるようになった。以後、1902年9月2日付で、専門学校から大学への昇格を機に、大隈によって代表される早稲田の地名をとり「早稲田大学」と改称した(常用漢字の改正以前は、「稲」は、「旧」ではなく「臼」の「稻」を使い、「早稻田大學」と表記していた。卒業時の学位記を納める楯には現在も旧字体が使われている)。
(Wikipediaより)
今回も最後まで読んでくれてありがとう。
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