今回は、チコちゃんに叱られる! ▽おなかが鳴る秘密▽リボンとは▽金魚の謎 初回放送日: 2022年12月16日の番組内容を紹介。
リボンってなに?
リボンってなに?
本日の2つめ目の話題。
チコちゃん「ねぇねぇ岡村、おしゃれに気を使っているステキな大人ってだーれ?」
岡村さんの指名で、ゆうちゃみさんが回答者に。
チコちゃん「リボンってなに?」
ゆうちゃみさん「物と物をくっつける。心と心をつなぐもの。」といった趣旨の回答。
正解に至らずられちゃいました。
チコちゃんの答えは、女性にモテたい男のアイテム
女性にモテたい男のアイテム
解説してくれたのは、日本女子大学の内村理奈教授。
リボンと言うと蝶結びされたリボンを想像しますが、長い帯状のもの。
リボンが誕生したときの主な役割は袖などの衣服の境目をリボンを結んで止めること。
実用的な紐のような使い方でした。
ところがここに特別な意味が込められるようになったのが中世ヨーロッパ。
男性にとって大きな意味がありました。
この時代行われていた騎士同士が馬上で戦う馬上やり試合。
中世ヨーロッパの競技でした。
この競技に先立って、恋人や憧れの女性から愛の証しとして服の一部をもらって試合で使う武器に付けるという風習がありました。
リボンをもらう事もあったため、いつしかリボンを付けることが男の勲章のような意味合いに。
このように馬上やり試合に参加する男性はリボンを武器に付けました。
しかしながら、命を落とす事もある馬上やり試合は危険すぎるという事で廃止になっていきます。
その代わりに17世紀ごろには好きな女性が好む色のリボンを男性が身に着けることが流行。
腰に結んだり、膝にループしたり、足を結んだり。
ブルーやピンクなど。
こうしてリボン文化が男性の間で徐々に定着。
17世紀後半にはリボンは大流行。
フランス国王ルイ14世の服装を見てみるとたくさんのリボンが。
フランスを中心にヨーロッパで流行したリボン
18世紀末に起こったフランス革命で貴族階級が崩壊。
派手リボンで着飾っていた男性貴族は没落。
その後、ブームになるのが一般市民のようなシンプルな着こなし。
飾りや装飾で勝負するのではなく内面で勝負する時代に。
「ダンディ」の美学が誕生。
着飾る色の対抗として「黒服」が最もおしゃれとされる時代に変化。
そして、リボン文化は衰退。
その代わり、自分を着飾る代わりにパートナーや家族を華やかに見せて自分の財力や地位を誇示するように変化。
やがてリボンは女性を華やかに見せるアイテムに。
このようにリボンは、男性が身に着けるものから女性を華やかに見せるものに変化。
結論
というわけで、
「リボンってなに?」は、
「女性にモテたい男のアイテム」
でした。
解説してくれたのは
日本女子大学の内村理奈教授
内村理奈 Rina Uchimura
1968年東京都生まれ。お茶の水女子大学大学院修士課程家政学研究科被服学専攻修了。リュミエール・リヨン第2大学DEA課程近現代史専攻留学。お茶の水女子大学大学院博士課程人間文化研究科比較文化学専攻単位取得満期退学。博士(人文科学、お茶の水女子大学大学院人間文化創成科学研究科)。日本女子大学家政学部被服学科准教授を経て、現在、被服学科教授。
専門は、フランス服飾文化史・服飾文化論。主に17世紀から19世紀にかけてのフランスの宮廷や上流社交界にみられるファッションのエチケットの社会的意味について、同時代の文献(礼儀作法書、雑誌、文学作品等)や絵画などの資料を駆使して読み解いている。
これまで扱ってきたテーマは、17世紀のギャラントリーとリボンの流行、清潔感と白いリネン類の関係、男性の帽子の作法と表象、18世紀の部屋着モード、ウェディング・ドレスと喪服の文化史、第2帝政期のパリモードにおけるロココ趣味やマリー・アントワネット好み、印象派絵画(特にルノワール)の服飾描写、礼儀作法書とモード雑誌の言説とイマージュの比較、などである。
(大学HPより)
日本女子大学(にほんじょしだいがく、英語: Japan Women’s University 略称: JWU)は、東京都文京区目白台二丁目8番1号に本部を置く日本の私立大学である。1901年創立、1948年大学設置。大学の略称は本女(ぽんじょ)、日女(にちじょ)、古い卒業生および職員は「目白の女子大」と呼ぶことが多い。
日本女子大学の位置(日本内)日本女子大学
日本女子大学
成瀬記念講堂内部(目白キャンパス)
明治時代に創設された日本女子大学校を前身とする。
概観
大学全体
日本女子大学校
日本女子大学校は、明治時代に日本で初めての組織的な女子高等教育機関として誕生した。女性に教育は有害無益であると考えられていた当時、創設者成瀬仁蔵は著書『女子教育』によって必要性を力説。創立にあたっては、東京専門学校(現・早稲田大学)の創立者大隈重信が創立委員長となり、総理大臣伊藤博文、学習院院長近衞篤麿、文部大臣西園寺公望、財界人渋沢栄一、岩崎弥之助等各界の重鎮の多大な支援を受け、広岡浅子の働きかけで三井財閥から東京・目白の地(現在地)を寄贈され開校。開校時は、家政学部、国文学部、英文学部の三つの学部と、附属高等女学校が設置された(『わたしの大学』日本女子大学より引用)。
通信教育
通信教育課程については、男性は科目等履修生としてのみ在籍可能。通信制大学院も設置された。通信教育で、中学や高校の家庭科や保健科の教員免許の取得が可能な数少ない大学。近畿大学豊岡短期大学や近畿大学九州短期大学の通信教育課程中学家庭科教員養成コースが廃止されたため、現在は、通信で家庭科教員免許が取得できる、日本国内で唯一の大学となっている。ただし、科目等履修生の教育実習や介護等体験の履修は、日本女子大学の卒業生のみに限定している。そのため、通信教育で家庭科や保健科の教員免許を取得できる男子学生は、すでに国語・英語・音楽といった家庭科や保健科以外の何らかの教科の中学免許や高校免許を取得済の者に限られる。放送大学学園と単位互換協定を結んでおり、放送大学で取得した単位を卒業に要する単位として認定することができる[1]。
その他
かつて「ジーンズを着て通学すること」の是非を巡り全学ストライキに発展したことがあった。まだジーンズが「貧乏人の服」であり、『理由なき反抗』などで着用していたことからそのイメージができた)でもあった時代のことである。
附属中高とともに、夏期休暇の時期に大学所有の軽井沢にある三泉寮で宿泊セミナーが行われ、互いの考えを交換し高めあういい機会になっている。
建学の精神(理念)
『女子教育』において「女子を人として教育すること」、「女子を婦人として教育すること」、「女子を国民として教育すること」の三方面から女子高等教育の方針を述べ、建学の精神となっている。
教育の特色は建学の精神を踏まえ、「人格教育」と「社会的人格の養成」にあり、晩年教育綱領として示された「信念徹底」、「自発創生」、「共同奉仕」にその理念を見ることができる。「信念徹底」は人の道の根本原理、「自発創生」は個人の創造性や主体性を育てる個性的な原理、「共同奉仕」は他者との共生を図る社会的な原理として位置付けている。(『わたしの大学』日本女子大学より引用)
(Wikipediaより)
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