今回は、チコちゃんに叱られる! 祝200回▽関西弁の謎▽羽田空港秘話▽山の不思議 初回放送日: 2023年2月24日の番組内容を紹介。
なんで関西人はどこでも関西弁を喋るの?
なんで関西人はどこでも関西弁を喋るの?
本日の最初の話題。
まずは、ゲスト紹介。
本日の松本潤さんと笑福亭鶴瓶さん。
早速、問題に。
チコちゃん「ねぇねぇ岡村、この中で一番、地元を愛する素敵な大人ってだーれ?」
この問題は、鶴瓶さんが回答者に。
チコちゃん「関西人は、どこでも関西弁で話し続けるよね。九州や東北の出身者は東京にくると共通語になる。なんで関西人はどこでも関西弁を喋るの?」
鶴瓶さん「関西人は地元愛が強い。生まれた時から関西にいる人が多い。そんな人が実権を握っている。」といった趣旨の回答。
正解に至らず、関西弁で叱られちゃいました。
チコちゃんの答えは、「先生が関西弁だから」
先生が関西弁だから
解説してくれたのは、同志社女子大学の中井精一教授。
そもそも関西弁とは、大阪・京都・兵庫・奈良・滋賀・和歌山・三重で話される方言の総称。
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学術的には「近畿方言」。
関西弁話者は約2000万人以上で日本で一番話されている方言。
関西弁が根強い理由
これは、学校の影響が大きいと考えられています。
学校では共通語の読み書きは学んでも言葉の”アクセント”については学びません。
国が定めた学習指導要領にも「場に応じた適切なことばづかい」と記されています。
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「共通語を用いることが必要な場合を判断しながら話すことができるようにすることが重要」
このように、特に強制はされていません。
関西人は関西生まれで関西育ち、そして、学校も職場も関西で一生を終える人が多い。
このように関西で生活している限り、共通語は必要ないと考えるのも自然とのこと。
すなわち、「共通語を用いることが必要ではない」ので教えることもないということ。
学校の先生も教えない。
共通語を身に着けさせてほしいという地域からの要請もないとのこと。
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また、関西人は自分たちの事を地方だと思っていません。
関西はかつて日本の都が置かれた土地。
首都圏に次ぐ規模を持った都会です。
それは全国的にも広く知れ渡っている事。
他社の評価が高いため、自分たちの評価も高くなります。
そうなると「関西は都会」と自負も高く、共通語に合わせる必要を感じていないとのこと。
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関西弁は都会の言葉だから無理に共通語を話す必要がない。
最後に、関西人がどこでも関西弁をしゃべるほかの理由として、
もともと関西人はどケチなど悪いイメージがありました。
近年は、お笑い芸人の影響で、関西弁にいい印象を持つ人が多くなったということもあるとのこと。
結論
というわけで、
「なんで関西人はどこでも関西弁を喋るの?」は、
「先生が関西弁だから」
でした。
解説してくれたのは
同志社女子大学の中井精一教授。
世界中でフィールドワークを重ね、方言研究を行っています。
方言には大きく分けて2種類あります。ひとつは社会方言と呼ばれるもので、性差や年齢差など社会的な立ち位置によって言葉遣いが違ってきます。もうひとつが地域差による言葉遣いの違いですが、私はこの地域差による方言研究を続けています。同じ日本語でも地域によりさまざまな言い回し・表現があり、それらは人の暮らしや社会のありようとつながっています。言葉を通して文化・歴史・社会を追究できるのが方言研究の面白さです。
例えば、豆腐の加工品である「がんもどき」は、関西では「ひろうす」「ひりゅうず」と呼ばれます。私が以前暮らしていた富山県では東西で異なり、西側は「まるやま」「まるあげ」東側が「がんも」「がんもどき」です。この場合、関西に近いか否かといった地理的な違いではなく、浄土真宗がどれだけ浸透しているかの違いが背景にあります。
「ひりゅうず」に興味を持った私は、ルーツが「ポルトガルのお菓子」であることを知り、かつてのポルトガル領マカオとブラジルで現地調査を行いました。しかし確証がつかめなかったので、ポルトガルまで出かけドーナツのような揚げ菓子「フィリョース」を確認してきました。帰国後、料亭の主人にお願いして「ひりゅうず」を作り、揚げてもらうと「フィリョース」と酷似していました。このように国内外を問わず、その場所に行って、現地を見て、その土地の人から直接話を聞くフィールドワークを大切にしています。
研究成果は報告書・論文だけでなく、著書としても発表してきました。著書はフィールドワークでお世話になった方々にお渡しし、成果の報告を心がけています。日本語研究と聞くと研究室に閉じこもっているイメージがあるかもしれませんが、私はとにかく現場に出向きます。
もともと考古学者を目指していました。子どものころから野外活動が好きで、発掘にも関心があったので、考古学を学ぼうと大学に進みました。ところが4年生で方言研究の先生と出会ったことにより、進路を変えました。その先生は古い方言研究ではなく、社会を見る新しい方言の研究をされていたことに感銘を受けたからです。
古い方言研究は、言語学や日本語学を限定的にとらえ、その枠組みのなかで考えられてきました。しかし、言葉は本来森羅万象を表現するものです。新しい方言研究では、対象を限定せず、人びとの暮らしや社会に注目し、あらゆる社会の事象に興味・関心を持って言語を追究していきます。
「面白い。方言研究ならあちこちに出向いて人に話を聞くことができる。自分のやりたいことをすることができる」と大学4年生の私は考えました。言葉を考えることは、最終的には自分と対話をすることです。当時の私は自分が何者でどう生きるかを迷っていたので、言葉を通して社会や自分を知ることができる方言研究に惹かれたのだと思います。
多くの日本人に「日本人の母語は日本語」と思われていますが、日本語にはいろいろな日本語があり、私たちの母語とは、つきつめると方言だと言えます。方言は、家族や地域での生活で身についた言葉であり、それを抜きに言葉を見つめることができません。他の地域の方言について考えるときも、自分の出発点に戻って、自分と対話することから始まります。
方言研究の良い点は、どんな人にも身近で気軽に関心を持ってもらえる点です。大学で学ぶ日本語学と聞くと、国語をイメージする人が多いですが、高校までの国語は、ひとことで言えば「標準語と文学」の世界です。国語で、日本語そのものを学んだり、考えたりする時間はほとんどなかったと思いますが、本学の日本語日本文学科では、日本語についてじっくり学ぶことができます。方言を入口にして、古い日本語、新しい日本語、さまざま種類の日本語や文法などの日本語のルールなどが理解でき、どんどん興味が広がっていきます。「方言は病院の総合外来のようなもの」と私は思っています。まずは「方言」の窓口に来てもらい、そこから各人に合った言語の領域、専門に進むといった具合です。
しかも本学は、京都の真ん中にあります。フィールドワークで京の言葉を知り、自分の母語と対話し、そして文化や歴史へと関心を広げていける最高の立地だと感じています。
(大学HPより)
同志社女子大学(どうししゃじょしだいがく、英語: Doshisha Women’s College of Liberal Arts)は、日本の国立大学。
京都府京田辺市に本部を置き、学校法人同志社によって運営されている。略称は同女(どうじょ)、同女大(どうじょだい)。
概観
大学全体
同志社英学校(現・同志社大学)を創立した新島襄によって1876年(明治9年)に開設された女子塾を起源とする[1]。1949年に、それまでの専門学校を母体に設置されたプロテスタント系の女子大学で、6学部11学科5研究科の構成である[2]。
キャンパスは、京都郊外の関西学研都市エリア内に広大な敷地を持つ京田辺キャンパスと、京都市の中心部に位置する今出川キャンパスの2ヶ所がある。今出川キャンパスの敷地は京都御所の北どなりに位置し、明治時代初期までは伏見宮家(皇族)と二条家(五摂家の一つ)の邸宅が建っていた由緒ある土地柄である。
建学の精神
1949年(昭和24年)2月17日制定の『同志社女子大学学則』では、「キリスト教主義」を基本に、「国際主義」、「リベラル・アーツ」を教育理念として定めている。
教育および研究
リベラル・アーツを教育の柱に据えており、大学の英称も「Doshisha Women’s College of Liberal Arts(略称:D.W.C.L.A.)」とした。
専門分野の研究はもちろん、他学科科目も履修可能な柔軟なカリキュラム構成をとっており、幅広い教養を身につけ社会で活躍できる女性の育成をめざしている。
近年では管理栄養士、薬剤師、小学校教員採用試験においても、全国トップクラスの合格率を誇っている。また、2015年に新設された看護学部は、組織の連続性はないものの、1886年(明治19年)に京都看病婦学校・同志社病院を開設した新島襄の「遺志を受け継ぐもの」とされる[3]。
2009年度から学芸学部英語英文学科と日本語日本文学科を表象文化学部として改組し、京都御所に隣接する今出川キャンパスに移転した。今出川キャンパスの周囲には宮家の一つである桂宮家本邸(桂離宮は別邸)跡や尼門跡寺院である大聖寺門跡・三時知恩寺門跡・光照院門跡など数多くの旧跡が残り、気軽に公家文化に触れることが出来る環境である。
(Wikipediaより)
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