NHK番組「チコちゃんに叱られる!」の放送内容を詳しく紹介!

チコちゃんに叱られる!

チコちゃんクイズ

なんで歩いていたらアイデアが浮かぶの?→あらゆる記憶が結びつくから

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今回は、チコちゃんに叱られる! ▽七五三の謎▽ボーっと歩くと▽海水魚の不思議 初回放送日: 2023年9月29日の番組内容を紹介。


なんで歩いていたらアイデアが浮かぶの?





なんで歩いていたらアイデアが浮かぶの?


本日の2問目


チコちゃん「ねぇねぇ岡村、この中で一番発想力が豊かなステキな大人ってだーれ?」


この問題は、水上さんが回答者に。


チコちゃん「なんで歩いていたらアイデアが浮かぶの?」


正解に至らず、叱られちゃいました。


チコちゃん「あらゆる記憶が結びつくから。」



あらゆる記憶が結びつくから


アイデアを出すために散歩をしていた偉人は数多く存在します。


進化論で知られるダーウィンは1日4回散歩。


ベートーヴェンは曲を思いついた時にメモが出来るようにペンと紙を持ちながら散歩していました。


アイデアを閃くには実際に経験した事、読書などで得られた疑似体験&知識などが結びつくことで可能に。


歩きながらボーっとする事が何よりも大切。


「デフォルトモードネットワーク」がポイント。


デフォルトモードネットワークとは太古より人間の脳にある機能。


寝ている時でも脳が活発に働いて危機察知などに役立てられていたもの。




警戒モードで眠りつつも、記憶の整理も行っています。


起きている時の20倍ものエネルギーを消費。


また、起きた状態でもボーっとしている時にはこの記憶の整理は行われています。


アイデアが浮かぶ過程で重要な役割を担っているのが脳の前部にある前頭前野。



前頭前野は「今回得られた新しい記憶のうちどれを脳に定着させるか?」と記憶の選別を行っています。




必要と判断すると記憶を司る海馬を通じて保管場所となる大脳皮質へ情報を蓄積。


このように前頭前野は新しい記憶を取り入れる時に働きます。


それとは逆に古い記憶を思い出すという働きも。


大脳皮質から記憶が取り出せないで欲しい情報を得られない時が「ど忘れ」。


一方で、前頭前野が特に記憶を取り出そうと指令を出していない=ボーっとした状態。


このように、前頭前野が積極的に働いていない隙に勝手に記憶たちが取り出されて、それらが結びきます。




ここで結びついた記憶を基にして「こんなアイデアがありますが?」と前頭前野に伝わる事で閃きます。


緑の中を歩いたり、手足を動かしたりという動きでもこの創造性をアップさせる事できるとのこと。




机に向かって考えている時は前頭前野が積極的に何か生み出そうと頑張ってしまっている状態。


ふとしたアイデアが浮かぶ余地はかなり少ない。


「この記憶とあの記憶を結び付けて」と意識的に行っていると平凡なアイデアしか浮かんできません。


その場合は、奇想天外なアイデアは浮かびにくいとのこと。



結論


というわけで、


「なんで歩いていたらアイデアが浮かぶの?」は、


「あらゆる記憶が結びつくから」


でした。
 



解説してくれたのは


早稲田大学の枝川義邦教授



枝川 義邦(えだがわ よしくに、1969年 – )は、日本の脳科学者であり博士(薬学)[1]。早稲田大学理工学術院教授。 著作家、講演家、講師、アドバイザー[2]。

脳神経科学を専門として脳の神経ネットワーク解析や行動解析を研究テーマに進める一方、経営学の視点から人材を活かした組織マネージメントや社会の成り立ち、消費者行動等のマーケティングを研究。早稲田大学ビジネススクールでも講師を務める[3]。

人物
東京都生まれ。東京大学大学院薬学系研究科博士課程を修了し博士(薬学)を取得[4]。早稲田大学ビジネススクール修了にて経営学修士を取得、先導的な研究者の称号としての早稲田大学スーパーテクノロジーオフィサー(STO)に認定される。

早稲田大学先端科学・健康医療融合研究機構[5]、及び、高等研究所准教授、帝京平成大学薬学部教授・脳機能解析学ユニット長、早稲田大学リサーチイノベーションセンター研究戦略部門教授を歴任。

2015年度「早稲田大学ティーチングアワード総長賞」を受賞。
(wikipediaより)



早稲田大学

早稲田大学(わせだだいがく、英語: Waseda University)は、東京都新宿区戸塚町一丁目104番地(新宿区西早稲田一丁目6番1号)に本部を置く日本の私立大学。1882年創立、1920年大学設置。大学の略称は早大(そうだい)。

概説
大学全体
大隈重信が明治十四年の政変による下野後に設立した東京専門学校を前身とする四年制の大学である[1]。1920年(大正9年)に日本の私立大学では慶應義塾大学などと共に最も古い段階で大学令に基づく大学となった(詳しくは旧制大学参照)。2019年時点で、10の学術院のもと13学部・25研究科(大学院)を設置している[2]。国際交流が盛んで、特にアジアからの外国人留学生が多い。

大隈重信が明治の代表的な政治家の一人であり、イギリス流の政治経済学を中心とする大学をモデルに設計されていることから政治経済学部を看板学部とし、政治経済学部を中心に政界・財界に多くの人材を輩出しているのをはじめとして、出版・新聞・文学などの分野でも多くの卒業生が活躍している。イギリスの教育専門誌『タイムズ・ハイアー・エデュケーション』による2017年の日本版ランキングでは、私大1位に認定された[3]。

早稲田大学は、東京専門学校時代から、文部省「特別認可学校規則」や専門学校令の特例適用、大学令による私立大学として最初期の認可などを受けてきた。政治学・法律学・文学・商学・理工学・教育学・芸術・スポーツなど様々な分野で、近代日本国家の教育・研究分野の形成をリードしてきた学校であり、上述の慶大と共に「私学の雄」と並び称され、私立大学の最高峰に位置付けられることが多い[4]。

同窓会は「稲門会」(とうもんかい)と称され、 早稲田大学校友会に登録している「登録稲門会」に限っても1,300を超える団体が存在し、国内有数の学閥となっている。


建学の精神
1913年(大正2年)当時の総長大隈重信は、前身となる東京専門学校の創立30周年記念祝典において、早稲田大学教旨を宣言した。

「学問の独立」「学問の活用」「模範国民の造就」を基本理念としている。

早稲田大学教旨は、高田早苗、坪内逍遥、天野為之、市島謙吉、浮田和民、松平康国などが草案を作成し、大隈重信が校閲のうえ発表した。1937年(昭和12年)に教旨の碑文が早稲田大学正門前に設置された[5]。碑文の刻字は、前島密が1915年(大正4年)に揮毫した自筆が元であり、原本は大学に保存されている[6]。

戦後(1949年)、「立憲帝国の忠良なる臣民として」の14文字は「主権在民を謳った新憲法にふさわしくない」[7]として教旨から削除されたが、正門前の「早稲田大学教旨」の碑に刻まれた語句については「思想の変遷を知る歴史的文書としてそのままに保存することがかえって記念碑の趣旨に副う」[7]として削られることはなかった。現在、石碑は正門の外側左に移設され、大学の外から誰でも自由に見られるようになっている[8]。

建学の祖グイド・フルベッキ
『早稲田大学百年史』に「最も直接的な建学の基礎的感化を与えたのはグイド・フルベッキである。フルベッキがなかったら、早稲田大学はなく、建っても、勿論、ひどく形式、精神の異なったものとなったであろう」という記述がある。大隈重信は長崎の佐賀藩校「致遠館」でフルベッキに英語を習った。教材は新約聖書、アメリカ独立宣言などであった。「アメリカ独立宣言を起草したジェファーソンは、合衆国に民主主義の政治を実行するためには青年を教育することが必要としてバージニア大学を創設した。ジェファーソンと同じ考えで私は早稲田大学を創設した」と述べ、「フルベッキなくして大隈なし、大隈なくして早稲田大学なし」としてフルベッキを建学の祖と称えている[9][10][11]。

大学名の由来
早稲田大学は、1882年(明治15年)10月21日に創設した「東京専門学校」を前身とする。当初は、創立者・大隈重信の別邸が東京府南豊島郡早稲田村に、また、校舎が同郡戸塚村にあったことから、関係者には「早稲田学校」「戸塚学校」と呼ばれていたが、最終的には「東京専門学校」と名付けられた。1892年頃には、専門学校の別名として「早稲田学校」と呼ばれるようになった。以後、1902年9月2日付で、専門学校から大学への昇格を機に、大隈によって代表される早稲田の地名をとり「早稲田大学」と改称した(常用漢字の改正以前は、「稲」は、「旧」ではなく「臼」の「稻」を使い、「早稻田大學」と表記していた。卒業時の学位記を納める楯には現在も旧字体が使われている)。
(Wikipediaより)




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