NHK番組「チコちゃんに叱られる!」の放送内容を詳しく紹介!

チコちゃんに叱られる!

チコちゃんクイズ

なんで韻を踏むと気持ちいいの?→リズムと驚きを同時に味わえるから

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今回は、チコちゃんに叱られる! ▽横断歩道の不思議▽“韻を踏む”とは▽学ランの謎 初回放送日:2024年6月7日の番組内容を紹介。


なんで韻を踏むと気持ちいいの?





なんで韻を踏むと気持ちいいの?


チコちゃん「ねぇねぇ岡村、この中で一番、言葉のセンスにあふれたステキな大人ってだーれ?」



チコちゃん「なんで韻を踏むと気持ちいいの?」


チコちゃんの答えは、「リズムと驚きを同時に味わえるから。」



リズムと驚きを同時に味わえるから


「韻を踏む」は似た響きの音を繰り返す事。


歌詞、ラップ、詩歌、キャッチコピーなど様々な場面で活用されています。




最近では、アイドルなどの曲でも。





韻には大きく分けて「脚韻」「頭韻」の2種類。


【脚韻】言葉のお尻の母音を揃えるのが脚韻。





【頭韻】言葉の頭に繰り返しが頭韻。




この韻を踏むという行為は日本最古の歌集である万葉集の時代から既に使われていました。


天武天皇の、「よき人の よしと よく見て よしと言ひし 吉野 よく見よ よき人 よく見つ」






江戸時代後期の米沢藩主である上杉鷹山の句も有名




日本では奈良時代から現代まで続くこの韻を踏む文化。


そのリズム感に秘密があります。


笠置シヅ子さんの東京ブギウギ




標語などでもよく使用されています。




吉幾三さんの「俺ら東京さ行くだ」でも





さらには制約の中に収める事で驚きを生むという魅力も。


例えばSEKAI NO OWARI『Habit』の歌詞。




・メロディー内に収める

・頭を揃える

・お尻を揃える

・歌詞の意味が通る

と数多くの制約を守りながらも韻を踏んでいます。


リズム感の良さと驚きを生む仕掛けができています。


このように多くの制約を乗り越えた韻に触れると驚きや達成感に似たものを感じるとのこと。


いう事で明治大学の堀田秀吾教授の協力の下で実験。


韻のあるラップと韻の無いラップを聴いた時の脳波を測定して比較。





韻を踏んだラップを聴いた時に人は幸福感・集中力・リラックスを示すα波が多く出る結果。




韻を踏むラップを聴いている時には無意識のうちの次の韻はいつ来るかな?と次の展開を期待しているような状態。


また、韻を踏むラッパー自身の脳波では、前頭葉と側頭葉の活動が抑えられている状態。




前頭葉→言葉を話す(声に出す)

側頭葉→言葉を理解(読む・聞く)


という脳の働きからすると韻を踏んでいる時こそ脳が活発に動いているイメージですが、脳波からするとその逆。


つまりラッパ^は印を踏んでいる時の方がリラックス状態であることがわかります。


さらに脳の後ろ部分の感情を司る部分も活動が抑えられていてリラックス状態。


エンジンでいう所のアイドリング状態に近い状態。


脳全体が満遍なく動いているのでアイデア同士が繋がりやすい状態。


多くの言葉を引き出しやすい状態になっています。


一方で韻なしのラップだとラッパー自身もかなり気持ち悪いという自覚も。


韻を踏まないように気を付けていたせいで脳はかえって集中している状態に。


韻を踏むと発する方も、受け取る方も気持ち良くなっているという結果に。



結論


というわけで、


「なんで韻を踏むと気持ちいいの?」は、


「リズムと驚きを同時に味わえるから」


でした。
 



解説してくれたのは


慶應義塾大学の川原繁人教授


原 繁人(かわはら しげと、1980年〈昭和55年〉 – )は、日本の言語学者、認知科学者、音声学者、実験音韻論者。専門は主にインターフェイス論(特に、音韻論と音声学、形態論や統語論とのインターフェイス)や音象徴、実験言語学一般。実験やコーパス分析に基づいた言語理論の研究を多く行っている。ジョージア大学、ラトガーズ大学助教授 (Assistant professor) を経て、現在慶應義塾大学言語文化研究所教授。父親は数理物理学者の川原睦人。

学歴、職歴
東京都世田谷区出身。和光幼稚園小学校、攻玉社中学高校出身。1998年に国際基督教大学に入学し、吉田智行の指導を受ける。2002年、学士習得 (B.A., Liberal Arts)。2000-2001年、カリフォルニア大学サンタクルーズ校留学中、理論言語学の基礎トレーニング、また最適性理論に関する大学院レベルのトレーニングを受ける。学士習得後、2002年にマサチューセッツ大学言語学科大学院に入学。大学院時代からさまざまな研究成果を発表し、2007年にジョン・キングストンの指導の下よりPh.D.(言語学博士)を取得。博士論文のテーマは音韻パターンへの音声的要因の影響。博士論文の大部分は、現在学術雑誌として出版されている (Kawahara 2006ab, 2007, 2008)。

博士号を習得後、ジョージア大学助教授(2007年~2008年)を経て、ラトガーズ大学言語学科及びラトガーズ認知科学センター(RuCCs)助教授(2008年~2013年)。心理学科所属。音声実験室所長[1]。また、ラトガーズ大学と日本の大学との交換留学にも関わる。2013年から慶應義塾大学言語文化研究所に移籍。多くの国際雑誌の編集委員やPhonologyやLanguage and Linguistic Compassなどの編集責任者を務めている[2]。日本学術会議若手音声研究者ネットワーク代表者[2]。

研究
学生時代は音韻論を専門としていたが、現在は音韻の規則性の元となるような音声(発音・聴覚)のメカニズムも研究している。知覚実験に基づいて、音韻パターンの元になる知覚のパターンの研究を行ったり (Kawahara 2006ab, 2007, 2008)、逆に、音韻パターンが知覚にどのような影響を与えるかを研究している (Kingston et al., 2009, 2011)。また音韻パターンの分析そのものに実験を取り入れるなどの試みも行っている(Kawahara 2011a, b, 2012)[3]。

また、日本語のラップの歌詞のもつ韻や洒落の言語学的研究など、本来音韻規則とはあまり関係なさそうな現象から一般化を導き出してくる研究でも広く知られる[4]。2018年にはフリースタイルダンジョンにゲスト審査員として出演した(5th season Rec2)。近年ではポケモンの名前における音象徴の研究や[5][6]、プリキュアの名前の研究[7]、ドラクエの呪文の研究、秋葉原のメイドの源氏名や宝塚の役名、AKBメンバーのニックネーム名[8]、メイド声の研究なども行っている[9]。その他、日本語のアクセントやイントネーション、音象徴、インターネットを使った実験、統計的な手法を用いたコーパス分析、EMA[要曖昧さ回避]やEPG[要曖昧さ回避]を用いた調音実験など幅広い研究を行う。対象とする言語は日本語が主だが、そのほか英語、ノルウェー語、フランス語、アラビア語、中国語などの研究も行っている[3]。

身近な題材を言語学の分析に使うことにより、言語学の裾野を広げることも研究の目標の一つにしている[10][11]。また、ALSの患者の声を救うマイボイスプロジェクトにも積極的に参加している[12]。ラッパーや声優など大学外部の人々とのコラボ活動も行っている。
(大学HPより)



慶應義塾大学

慶應義塾大学(けいおうぎじゅくだいがく、英語: Keio University)は、東京都港区三田二丁目15番45号に本部を置く日本の私立大学。1858年創立、1920年大学設置。大学の略称は慶應(けいおう)、慶大(けいだい)。「應」が旧字体のため、報道などでは「慶応」と表記されることもある。

概説

文久2年(1862年)、江戸築地鉄砲洲中津藩中屋敷内にあった蘭学塾「慶應義塾」(画面中央左側築山下の平地)。

図中央に有馬家控屋敷(有馬侶四郎)とあるのが慶應義塾に当たり、東には浜御殿がある。江川英龍の「江川太郎左衛門鉄砲調練所」が隣接しておりこの江川家屋敷に「分塾」があった。 尾張屋清七版芝愛宕下絵図
慶應義塾大学は、中津藩士の福澤諭吉が藩命により江戸築地鉄砲洲(現在の東京都中央区明石町)の中津藩中屋敷内に、1858年(安政5年)開校した「蘭学塾」を起源に持つ大学である[1][2][注釈 1][注釈 2]。淵源は、1796年(寛政8年)設置の国学藩校「進脩館」まで遡り[3]、1839年(天保10年)に開塾した「象山書院」及び江川英龍の「韮山塾[4]」等旧私塾の流れを汲む[注釈 3]。

1863年(文久3年)、蘭学塾から英学塾に変わると、旧幕臣の吉田賢輔等を教授に迎え、さらに1866年(慶応2年)、親藩である紀州藩(紀州徳川家)の命を受けて藩士を迎えて塾舎内に「紀州塾」を開設[5][6][注釈 4]。この他、幕末にかけては「志摩三商会」に脈絡のある三田藩の藩政改革に携わる。1867年(慶応3年)12月、木村摂津守の世話により芝新銭座(現在の東京都港区浜松町)の有馬家(久留米藩)控屋敷跡を購入し、翌年の1868年(慶応4年/明治元年)4月に移転し、年号をとって「慶應義塾」と塾名を定めた[7][注釈 5]。なお、「義塾」とは英語の「パブリックスクール(public school、共立学校)の訳語とされ[7]、このとき、中津藩江戸藩邸の蘭学塾から近代私学としての一歩を踏み出した。

1871年(明治4年)に、三田(港区三田)の島原藩中屋敷跡地を貸し下げられ(翌年払い下げを受ける)、現本部所在地に移った。明治以後、官公私立問わず、近代日本の教育制度、大学制度の立ち上げモデルになり、また後に私立大学となる学校の中で最初に授業料を徴収した[9][10]。廃藩後の1880年(明治13年)までの生徒の割合は、慶應義塾の三藩(越後長岡藩、紀州藩、中津藩)を中心とした士族が十中八九であった[11]。1873年(明治6年)に「慶應義塾医学所」を開設[12]。同年10月には分校「大阪慶應義塾」[13]と「京都慶應義塾」(京都集書院)[14]を設立。また福澤諭吉や松下元芳が塾頭を務め、塾生が一部移籍してきた適塾(大阪帝国大学医学部)から受けた影響は特に大きく、大阪とのゆかりが深い。

1873年(明治6年)に修業年限を定めて正則・変則両科を新設。1875年(明治8年)に本科・予備科となる。1876年(明治9年)に土佐立志学舎(高知県)の運営に参画。1877年(明治10年)に神戸商業講習所(兵庫県)を開校。同年に本科第三等以上修了者に徴兵免役の指令が出され、1896年(明治29年)に改正徴兵特典適用、1899年(明治32年)に海軍少主計候補生(主計少尉候補生)の受験資格を得た。1878年(明治11年)には分校「三菱商業学校(明治義塾)」設置に参画。1879年(明治12年)に専門教育課程として夜間法律科(専修学校 (旧制)へ改組:後の専修大学)、理学科、支那語科、簿記講習所を設置。1880年(明治13年)には興亜会へ参画。その他、主な関連校に藍謝堂(高島学校)や高山歯科医学院、耕余義塾、亮天社、三田英学校等がある。西南戦争が起きた1877年(明治10年)頃から多くの塾生が郷里に帰郷した為、慶應義塾は経営難に陥り、福澤も一時は廃塾を真剣に考えたが、義塾存続を望む門人らの尽力により1880年(明治13年)に「慶應義塾維持法案」を作成して財政立て直しを行い、翌年には「慶應義塾仮憲法」が制定され、慶應義塾は理事委員中心の組織経営へと移行した。さらに1889(明治22年)には「慶應義塾規約」が制定されて社頭と塾長の職掌が明確化されたほか、今日まで続く評議員会の制度が設けられるなどの組織改革が行われた。

1890年(明治23年)に大学部(文学・理財・法律の三科)を開設し[注釈 6]、従来の正科・別科を普通部とした。1898年(明治31年)に幼稚舎・普通学科・大学科の一貫教育体制が確立。同時に大学科に政治科を開設した。

晩年の福澤諭吉は義塾経営の第一線からは半ば退いていたが、大学部存廃問題のような重要局面では影響力を行使し、1897年(明治30年)8月から一時塾長に復帰した[15]。福澤は1901年(明治34年)2月3日に没した。同月6日に宮中から祭粢料一千円が遺族に下賜され、7日に衆議院は哀悼決議案を議決した[16]。

1904年(明治37年)に大学部が専門学校令による専門学校となり、1907年(明治40年)に学校組織が財団法人として認可された。大学部文学科は1901年(明治34年)に一度廃止されたが3年後に復活し、永井荷風を主幹として1910年(明治43年)に創刊された文芸雑誌『三田文学』は日本の文学史上に大きな足跡を残した。

卒業生は明治初期、官吏、教育界が主流であったが、明治十四年の政変の後、漸次に経済人、実業家が勃興するようになる。また、1880年(明治13年)に日本最古の社交倶楽部「交詢社」を設立した[17]。1912年(明治45年)に煉瓦造の創立五十年紀念図書館が開館。そのゴシック式の建築美は慶應義塾のシンボルとなった。慶應義塾に理科系教育部門を開設したいという希望は福澤の存命中からあり、明治末から大正初期に工学科開設案が出たこともあったが[18]、最終的に医学科を開設することに決定し、1917年(大正6年)に北里柴三郎を学長[19]に迎えて医学科予科の授業を開始。翌年看護婦養成所(看護医療学部の起源)を附設した。

1920年(大正9年)には大学令による日本最初の私立大学(旧制大学)として新発足し[注釈 7]、文学部、経済学部、法学部、医学部の4学部からなる総合大学となり、予科と大学院を附設した。このとき、学事に関する最高意思決定機関として大学評議会が設けられ[20]、同年11月には四谷区西信濃町に慶應義塾大学病院も開院した。従来からの専門学校令による課程は高等部(当初は専門部)に改組され、1945年(昭和20年)に廃止されるまでに4,419名の卒業生を送り出した[21]。関東大震災の被害復旧の目途が立った大正末期頃から校地拡張の議が起こり、1934年(昭和9年)に日吉キャンパスを開設した。

1936年(昭和11年)に米国諸大学を視察した小泉信三塾長は工学教育の必要性を痛感し、その立案に着手したところ、塾員・藤原銀次郎も同様の企画を進め、適当な時期にこれを義塾に寄附する意向を示したため、義塾はその計画をすべて藤原に譲ることとし、1939年(昭和14年)に旧制藤原工業大学が日吉構内に開校した。その後、旧制藤原工大は当初の構想通りに慶應へ寄附され、1944年(昭和19年)に慶應義塾大学工学部となった。

太平洋戦争下の1942年(昭和17年)に中国大陸および南方の農業開発を目指して農学部を増設しようとしたことがあり(獣医畜産専門学校)、戦後の1947年(昭和22年)には獣医師の免許を得ていた。戦時下の空襲で三田・日吉・信濃町の各キャンパスは甚大な被害を受け、さらに終戦後まもなく米軍によって日吉を一時接収されたため、戦後の大学再建には大きな困難を伴った。

1949年(昭和24年)に新制大学が発足し、文、経済、法、工の4学部を開設。1952年(昭和27年)に新制医学部が発足した。1957年(昭和32年)に商学部を開設。1972年(昭和47年)工学部が矢上キャンパスに移転。1990年(平成2年)、湘南藤沢キャンパスに総合政策学部と環境情報学部を開設。2001年(平成13年)に看護短大を改組して看護医療学部を開設。2008年(平成20年)4月に共立薬科大学が合併したことにより、新たに薬学部・薬学研究科を設置した。

2021年(令和3年)に、高山歯科医学院を前身とする学校法人東京歯科大学と2023年(令和5年)4月を目途に歯学部統合および法人の合併に協議を開始したが、新型コロナウイルス感染症の世界的流行を踏まえ、統合目途を設けずに協議を継続する事とした[22]。尚、塾員小幡英之助は、1875年(明治8年)内務省より歯科専門の歯科醫術開業免許第1号を得て、築地采女町(現在の東京都京橋)に開業している。

2023年(令和5年)現在の大学は10学部、大学院は14研究科となっている[23]。2000年代以降に研究所や社会人教育拠点などの全国展開も行われ、丸の内・大阪の両シティキャンパス、新川崎・殿町・鶴岡の各タウンキャンパスが設けられた。
(Wikipediaより)




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